幽玄に出会う

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倉吉心身体育講座でした

昨日3月23日は一般社団法人愛光流主催の一般講座、心身体育講座の日でした。

私たち師弟会は倉吉師弟会の日でもあり、朝から会場に集まりお稽古してから講座に、というような一日でした。

 

講座会場の窓から見える枝垂桜。まだ3分咲きくらいでしたが「もうこれで十分だよね」「お花見しようか」っていう感じでした。

曇り模様、小雨が降り、その影響かやや気温の高い一日でした。桜も一気に開花が進むのではないかと思います。そうなると一雨一雨、「花が散っていくんじゃないか?」「お花見は今週末なのに」とか余計な心配もやってきます。

花じゃなくて花見の心配ですか?と言われてしまいそうですが、花をめでるには十分な人間的、精神的成熟を必要とするのかもしれません。

若いころ、中学生とか高校生の頃なんかは「花より団子」でした。年齢や経験を重ねるごとに花をめでる感受性が育まれてきたように思います。もちろん個人差あり、私個人的な話ですが。

 

芸術に触れる

会場の倉吉市リフレプラザでは1Fギャラリーで写真展を開催していました。

 

水墨画のような風景写真。何気ない日常的な風景が特別な空間になったように感じます。その一瞬一瞬の自然が発する美しさを私たちも感じていると思うのですが、それを見事に切り取った作品。水墨画のようではあるものの白と黒の印影だけではなくわずかに自然の色を残すことで、より一層自然の神秘を感じられる作品でした。

 

たまたまご本人、写真家の五島健司さんがキャンピングカーで来ておられ、作品をお話しながら鑑賞させていただきました。

福島県出身の五島さんはキャンピングカーで日本中を廻っておられるそうです。奥様とキャンピングカーで福島から3日かけて倉吉までお越しになられたそうです。

 

左から:隅田、写真家五島健司さん、師弟会の古鐵先生

 

幽玄

素晴らしい作品ばかりでした。まさに幽玄の世界。

幽玄とはなんだろう?ということで調べてみました。

 物事の趣が奥深くはかりしれないこと。また、そのさま。「―の美」「―な(の)世界」

 趣きが深く、高尚で優美なこと。また、そのさま。

「詩歌に巧みに、糸竹に妙なるは―の道、君臣これを重くす」〈徒然・一二二〉

 気品があり、優雅なこと。また、そのさま。

「内裏の御ことは―にてやさやさとのみ思ひならへる人の云なるべし」〈愚管抄・四〉

 中古の「もののあはれ」を受け継ぐ、中世の文学・芸能の美的理念の一。言葉に表れない、深くほのかな余情の美をいう。

㋐和歌では、言外に感じられる王朝的な上品で優しくもの柔らかな情趣をいう。

㋑連歌では、艶でほのかな、言葉に表されない感覚的な境地をさしていう。後に、ものさびた閑寂な余情をもいうようになった。

㋒能楽では、初め美しく柔和な風情をさしていったが、後、静寂で枯淡な風情をもいうようになった。

何に付くのかによって幽玄の意味も変化するようですが、私は幽玄とは光と影に存在するものではないかと考えています。光があって影がある。影が光を作ることはありませんが、光に対していくつかの条件を設けることで影が生まれます。

老子は天地のはじめを無といい、萬物の母を有と呼びました。ここにある無と有は別々のものではなくただひとつのものであり、そのはたらきを玄と呼びました。そう考えますと玄というのはすべてであり、絶対的なもののように思えるのです。

玄に幽がついて幽玄です。幽は幽霊とかに使用される文字ですが見えないという意味です。目に見えないたったひとつのもの。それを現わそうとすると幽玄というものになる。

自然が生み出す目に見えているのだけれど感じ取ることのできる美しさを切り取ろうとすることは、もしかすると不毛なことなのかもしれませんが、それもまた幽玄なのだと思います。

 

というわけで

倉吉で思わぬ芸術と出会いました。アーティストと呼ばれる人たちはいったい何を感じ取って生きているのだろう?ちっとも芸術を介さない私にはわからないことだらけですが、少しでも近づいていけたらなと思います。

 

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