「生きているのだ」からはじめよう

整体について

昔、理学療法士をしていたときにたくさんの患者さまを担当させていただきました。

わたしは外来リハビリと病棟、入院しておられる患者さまの担当でした。

外来の患者さまと入院しておられる患者さまでは関わることができる時間が違うんですね。外来の患者さまは基本的に1単位と決まっていました(2単位の人もたまにおられましたけど)。

1単位ってどういうこと?って言いますと20分っていうことです。1単位20分。2単位だと40分になります。単純に2単位の患者さまばかり担当すると担当できる人数が少なくなります。3単位(60分)の患者さまを担当するともっと関われる人数は減ってきます。担当した人数の多い少ないではなく、その患者さまに対して最適なリハビリの単位数を提供するというのが医療施設ですし、その判断は療法士ではなく医師に委ねられています。

わたしは外来の患者さまで1単位の患者さまを担当する機会が多かったので必然的に多くの方を観る機会を得ました。

入院しておられた方が退院なさって、それから外来にお越しになることもありますので、外来のリハビリとはいえ、その状態や症状、病態はさまざまでした。

 

リハビリなんかで焦点になるのが痛いかどうか?歩行がスムースかどうか?お手洗いに行けるかどうか?手足がスムースに動かせるかどうか?外来では機能的な部分が多かったように思いますが、入院なさっているときはそうではなく、日常的な生活動作がどれだけできないか、できるか?というのが焦点になっていたと思います。ADLというやつですね。院内での自立度なんかにも影響しますから、少しでもご自分でできるようになってほしいと看護師や介護士さんたちとチームで協力していました。

わたしが勤めていた時代でもそろそろ禁煙化の波が強烈に押し寄せて来ていて、職員さんの中でも喫煙者はいたのですが、喫煙職員さんたちの願いむなしく残念ながら施設内は禁煙になりました。

禁煙している施設だとされると、補助金だかよくやった手当てみたいなものをいただけるということでして、そうであれば施設側としてもやらざる負えない。「お金に弱いんだなぁ」と思いつつも「経営する上では小さなことも大事だよな」と思ったり。そうかと思えば「国がお金を出したらころっと庶民の方向性や一企業の方針なんて変わってしまうんだな」と。

 

リハビリと禁煙。

どういう意味があるのかというと人間の行為とか運動の話。人間の行為とか運動、動作の起源って何だろう?どうして人間は行為するのだろう?ということを考えます。人間の行為、運動、動作を考えるときには人間が一生物体であることからはじめないといけない。そうしないと無限にありすぎて整理できないから。人間も一生物です。地球上に存在して、重力とか磁力とかいろいろなものがある状況下で生きています。暮らしています、という方がいかにも人間っぽい、人類っぽいんですが生物という括りからはじめようと思うと生きているという表現の方がしっくりきます。

命があるから生きていて自由に動き回ることができます。命が去ってしまうと身体はただの肉体になります。朝、病室に行ったら・・・っていう経験もあり「命があるのとそうでないのとではまったく違ったものだな」と思いました。

 

 

命があったらそれだけで自由に動き回ることができるのか?というとそうでもなくて、機能的に不可能な場合もありますが機能上に人間の行為や運動、動作の根源って欲求です。欲求が人間を動かしています。トイレに行きたいと思ったらトイレに移動します。酔っぱらってフラフラになっていたら這ってでもトイレに行きます。たまに帰って来れない人もいますけど・・・。

何かしらの欲求があって人間は行為するのです。お仕事がしたいから職場に出かける、お金が欲しいから職場に出かける、自己実現したいから職場に出かける、約束を守りたいから職場に出かける、いい加減な人間だと思われたくないから職場に出かける・・などなど。最後の方はずいぶんとネガティブな欲求だったかもしれまんが、とにかくいろいろな欲求が動機となり職場へ向かいます。行為とか行動ですね。欲求があるからこそ人間は動くのです。

 

入院なさっている患者さま。入院するくらいですから医学的な管理も必要であまりあちこち自由に行かれては困る人もおられるわけです。それでも喫煙なさる患者さまは必ずと言っていいほど何時間化おきにわざわざ遠いところまで行って喫煙をする。雨が降っていようが雪が降っていようが。「滑るから、危ないからやめなさい」と言ってもスーっと病室からいなくなる。そして慣れない車いすをえいこら言いながら漕いでいるのです。

そのときの運動量と言ったら非喫煙の患者さまに比べてまったく違います。リハビリ中は歩く練習を嫌がってる患者さまでも喫煙の為ならどこまででも行ける。そういった人間の欲求というものが練習量の確保につながり、結果的に早く病院から出ていく。そういった人は夜中でも喫煙しに出て行こうとかするので、だいたいが問題患者さまとなり比較的早く退院の運びとなります。

 

人間が行為をするためには生きているという前提が必要です。生きていない人間は単なる肉の塊であり、話すことも動くこともありません。ある人が話していた、歩いていた。その人は生きているのです。「腰が痛い」「仕事をやめたい」「子どもが言うことをきかない」とか言っていても、まずはその人は生きているのです。そしてただ生きているだけではなく、欲求をどうにかしようと思って動いたり考えたりする。行為や行動、運動、動作は欲求を叶えるために現れたもの。「腰が痛い」「仕事をやめたい」「子どもが言うことをきかない」も同じようなものなんだなと思います。

まずその人は「生きているのだ」ということからはじめないと人間を理解することはできないのではないかなと改めて思います。命の大切さや尊さを改めて感じる以前に「生きているのだ」を端折ってはいけないのだと。

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