【整体エッセイ】個性~自分は意外とわからないもの~

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「○○さんの場合はこうですよ」「○○さんはこうなるだろう」って言える場所にするために。

 

誰にでもそうですが、迷う時ってあります。

こっちの商品にしようかな?それともこっちの商品にしようかな?
今日はお肉にしようかな?それともお魚にしようかな?

そんな単純なこともそうですが(これが迷うっていうのかどうかもわかりませんが)その他にも大小さまざまなことでわたしたちは悩みます。

 

これから進む道はこっちかな?あっちかな?
取捨選択できるのはいい方で「わたしの進むべき道は何だろう?」って漠然と悩んだりします。

結婚しようかな?まだやめとこうかな?
この人でいいのかな?
それとも別のもっといい人が現れるのかな?
結婚生活はうまく行くのかな?

この子の将来はどうなるのだろう?
この子の才能を活かすことはできているのかな?
この子の持って生まれた才能って何だろう?

この会社に入ったら将来は安泰かな?
それとも別の業種の会社の方がこれから将来性があるのだろうか?
自分は出世するのかな?

お金に苦労することはあるのだろうか?
大金持ちになりたいけどなれるのかな?
大金持ちとまではいわないけどそこそこの生活をするのに困らない程度のお金を稼ぐことはできるのだろうか?

 

悩むという言い方もありますが、ある意味で不安でもあり希望でもあります。

 

わたしたちはできるだけ間違いたくはありません。失敗もしたくはありません。リスクとかコスパとかって今や誰もが使いこなす言葉になりました。

一方でわたしたちは、誰もがみんながみんな大金持ちになったらそれでいいのかというと、意外とそうではないということも何となくわかっています。だからと言ってせっかく大金持ちになるチャンスをわざわざ逃したくはありませんが、そういうチャンスがどこにあるのかわからない。せっかくの機会ですから一回くらいは大金持ちと呼ばれるくらいになってみたいものですが、「案外たいへんなんだろうな」となったこともないのに心配しています。

でもおそらくですが、おっしゃるとおり大金持ちと言われる人間になると大変なものでもあるようです。「そこそこ」と自分で言うのはいいんですけれども他の誰かから言われるとムッとする言葉、ちょうどいいこともあります。

自分が「大金持ち」なのか「そこそこ」なのかは別にしても、自分というものは意外とわからないものだったりします。

食べ物の好みにしても「この店はうまい」「星が〇つだから」などと言われてものれんの向こうのおでんが無性に美味かったりする。同じお店でも味噌ラーメンが好きな客と餃子ライスのお客。いろいろあるのが当然なのです。味噌ラーメンのお客に餃子ライスをすすめたら、食べてみたら「案外美味いね!」なんて言うにも関わらず、食べてみるまでに時間がかかったりします。「ここの餃子ライスが美味いんだから!食べてみてよ」なんてすすめても「いや、この店は味噌ラーメンでしょう!」なんて言い合いになったりする。

好みや趣味嗜好というのはある意味でその人を彩っているものでもありますから、頑なな部分も理解はできます。

わたしたちはこれまでに自分というものを生きてきましたが、意外と自分のことはわかっていなかったりするものです。それはこれまでに個性というものを叫ばれつつも要所要所では「長いものに巻かれる」ではないですが、体制に迎合してきたからです。そういう風に言うと何か大げさな感じもしますが、学校生活や社会生活を営んでいくうえでの選択をしてきたというだけです。朝起きたら学校へ行き、会社へ行き、勉強して、仕事して。そこで自分だけの個性を発揮する場面って意外と少ない。なのに個性教育だと言われても、何が個性で何が個性でないのかの判別も難しい。

 

整体操法の中で背骨を観察しています。

そうするとほんとうに同じ人なんてひとりとしていない。おそらくこの人は社会に幻滅し、自分自身を見失い、そういった意味では苦悩していたとしても背骨は誰とも違う。頚椎の数、胸椎の数、腰椎の数、仙椎の数。それは解剖学的に構造上同じ数である。過去のできごとの中でオペをしたとか先天的に異常があるという場合もあるのかもしれないが、ほとんどが同じ数の椎骨を持つ。

しかし、その中にその人だけの個性があり、その人しか持ちえないものがある。

背骨って魚にもあります。脊椎動物って昔理科の授業で習いました。いつだったかな?小学校のときじゃなかったっけ?魚類、両生類、爬虫類、鳥類、哺乳類の順番にわたしの時代は習いました(いまは変わってしまったかもしれませんね)。

それだけたくさんの生物に共通してあるものの中にその人という個人、個性があるというのはほんとうにおもしろい。そう考えると人間は生まれたときから個性的であってわざわざ個性というものを探す必要がないのかもしれない。ただ、人間が頭の中で、知識の中で個性を探そうと思うといろんなものに吸いつけられて、ほんとうの個性に近づけないというものなのかもしれません。

個性というのはもっと原始的なものの中にあるような気がしています。

 

冒頭の一文をもう一度。

琴浦町指導室。

「○○さんの場合はこうですよ」「○○さんはこうなるだろう」って言える場所にするために。

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