自由は存在しない
新年早々いい話をしたい
新年早々にいい話をしたい。
本当にそう思っています。でもそうなるのかはちょっとだけ不安。
タイトルからしてそうではないですか?
自由は存在してほしい。自由を追い求めているんだもの。自由がないなんてどういう了見なんだ。
「自由」にしていいっていい言葉。「自由」になりたい。ほらやっぱりあるじゃないか。
でも最後までお読みいただいて、そういうことなのかと思っていただけたら幸いです。
「自由になりたい」
師匠山本清次先生とのお話です。
師匠と話をしていますと、ハッと思わされることがあります。
自分自身が思ってもみなかった方向への気づきを促していただくこともあれば、自分自身の考えをさらに深く導いてくださることもあります。
いくつもそういったことはあるのですが、そのうちのひとつを。
自由というものはない。
「自由になりたい」とか「人間は自由だ」
「もっと自由でいたい」、「自由に生きたい」
「自由にしていい」、「自由はすばらしい」
いろいろとありますが、どうやら自由というものは存在していて、それは得がたいものであるようです。
自由というものと引き換えに何かを得ていて、自由はそのための犠牲となり、自由を失っている、もしくは枯渇しているもののようです。
フランス革命とか歴史的な革命を経て、自由というものを得てきました。
歴史で学ぶとそのようです。自由を手に入れるために人間同士戦い、傷つき、血を流してきました。命を失った人もいました。
ですので、おそらく自由というものは尊く、何かしらのはずみで失ってしまったり、奪われてしまったりするものなのでしょう。
その精神は受け継がれていて、ある時期になると「もっと自由でいたい」とか「自由に生きたい」などと思うようになります。
世の中の閉そく感や自分自身に対する期待が基になって「自由を渇望する」のかもしれません。
ぼく自身も「自由になりたい」と思う時期はありましたし、何かしら生きずらい世の中に息苦しさを感じていました。
そう思う時期もありました。
思春期のころに「自由になりたい」と考えたら、学校をサボるとか部活をサボる、バイトをサボる、塾をサボる。そういったものからの逃避行動で表現することが多いのではないかと思います。社会人になってからだと、会社をサボる、転職をする、といったところでしょうか。どちらにせよ、現状からの脱却。学校とか会社とか肩書のようなもの。組織的なものからの脱却を「自由」と呼ぶ。
革命なんかも貴族や権力者たちから権利を勝ち取るため。枠組みからの脱却を「自由」と呼んだ。
誰しも何かしらの生きずらさを感じてはいるだろうし、そこに対する不「自由」さを感じているのだから「自由」というものは得がたく、失われやすいものなのです。
だからこそ人は渇望するし、得たいと思うし、追い求める。
囚われもする。拘りもする。
美化し、羨む。
自由というものはない
さて、「自由」なんてない。という師匠の言葉。
「自由」を喉から手が出るほど渇望し、熱く燃え滾っている人からしたらけしからんというような話になりそうです。
たとえば人間は何かの役目を持って生まれてきたとしましょう。
誰にでも、どんな人間にもかならず役割りというものがあるはずだ。
世の中には得意なこともあれば不得意なこともあります。
おそらくあなたが得意なことが不得意な人がいるでしょうし、あなたが不得意なことが得意だという人もいます。
それが世の中のジグソーパズルのように、いろいろな人間がパーツ、パーツになって大きな世界という絵を構成してるのです。
というお話。似たようなお話を聞いたことがありませんか?自己啓発系統の得意とするところですね。
これはウソです。
もっと言うとパーツという役割りがあるという時点で「自由」なんていうものはないのです。
パーツという役割りを謳う反面で「自由」を求めるのは矛盾しているのです。
ひとには天命に生きるというルールがあります。
天命がひとを生かしています。
パーツとは違うのです。
それは、天を構成する一部分がわたしではないからです。
わかりにくいかもしれませんが、天命というものは存在し、天命というものに縛られてわたしたちは生きています。
「自由」になんて、していいはずがありません。
「自由」というものは人間が創造したものです。あたかも「自由」というものがそこにあるかのようです。
誰も「自由」というものの存在を疑ったりはしません。
現実主義者、物質主義者でも「自由」の存在を疑いません。
天命に生き、天命に縛られて生きることは選ぶとか選ばないという範疇にはありません。
「自由」は天命を見失わせます。
「自由」が天命を見えなくさせます。
より羽を広げ、より高く飛ぶために。もっと広い世界をみるために「自由」を求めたはずが、何も見えなくさせているのです。
光明想。光を求める。光に戻る。光に帰る。
それはこれまで知っていた「自由」というものとは程遠い。
これまで知っていた「自由」なんてなくていい。
ぼくは師匠に教えていただくまで、これを読んでくださっている読者さまと同じように「自由」というものはどこかにあるんだろうなと思っていました。
ほんとうの「自由」が「自由」なのかどうなのかはわからないけど、多分どこかにあるんだろうなと思っていたのです。
でもなかったんですね。
もとから存在し得ないものをあるものとして信じて、求めてきたのだと思うと、見えていないというのはこういうことかと思いました。
知恵があるということは、目が見えるということ。
見えていないから暗かったし、怖かったし、不安だったのです。
知っているということ、知識があるということは暗闇を照らす灯りのようなものです。
「自由」は存在しない。
この言葉がおどろくほどに暗い道を照らしているのです。
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