一流とは何か

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ある側面を観て、その裡にあるものを判断する。

一事が万事とはよく言ったもので、何気ないところにその人の本性が現れている。
このようなことはよくあることで、そういったところを整体は得意とする部分でもある。

たとえば、腰椎3番の捻れ現象から、その人の負けん気の強さを読み取り、同時に腰椎3番の捻れ現象から腎臓の疲労を読み取るわけです。

その人の腰椎2番から共感性の強さを感じ取り、同時に腰椎2番から胃袋の強さを測り知る。

胸椎4番と9番に異常が出てくると夏を感じ、腎臓の骨から秋の足音を感じ取る。

そのような小難しい専門的なことばかりではなく、恥ずかしいと思ったら、人は顔を赤くしますし、怖いと思ったら青白くなる。こればかりは細工のしようがない。隠そうと思っても隠せないのです。

腹が立ったら腹直筋が硬直する。もしかしたら腹直筋が硬直するから腹が立つのかもしれない。腹直筋を鍛えている人は、そうではない人よりもおそらく好戦的なのだろう。

マスクをしたり、サングラスをするだけで気が大きくなる人もいる。SNSなどで過激な発言が起きるのはそういった現象とも関係しているだろう。しかし、それもその人の本性であり、マスクをしたりサングラスをしたり、匿名になった途端に、その本性が現れるわけだ。

とはいえ、マスクをせずともその人の本性は端々に現れており、この人の本性は一体どういう人なのだろう?というのが関心事だったりする。

 

私は背骨を観察したり、四柱推命命式から判断したりするのですが、最近少し思うところがあった。以下である。

利休のことを考えて、利休という人物の内容を煎じ、突き詰めていきますと、世間でいう彼が大成した茶道とか後世に遺した名器などは、彼の頭の中に深く隠れていたものの何かの手がかりに過ぎなかったような気がします。

師匠といるとき、その所作や立ち居振る舞いからいろいろなことを学びます。もちろん師匠に一歩でも近づきたい気持ちを持ちながら、私は師匠の一挙手一投足をまねることから始めます。私としてはまねている「つもり」になっているのですが、まったく違うのが現状。

同じようにしている「つもり」だからかもしれないが、「つもり」から始めて、「つもり」を積もり積もらせていくしか方法はないようにも思う。積もり積もって、立っている処を変えていくだけなのだ。

人間の裡にあるものは、隠しているようでも隠しきれていないことがほとんどだ。
それを人の本性を暴いたかのように振る舞うのも、その人の本性であろう。

しかしそれが人のすべてであると考えると大きな間違いである。
目の奥行に個人差があるだけで、見えていることには変わりはない。

現れているものと現れていないもの。

断片が現れているにすぎないということに妙に納得させられたのである。

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