散るから花なのである

アンチエイジング

年をとるということがいつの頃からイヤなことになったのだろう。いつまでも若々しくありたいと思うのは誰でもあることのように思います。階段を上って息切れをするとか前夜の深酒が次の日まで残るだとか、油っこいものを受け付けなくなったとか。若いころにはなかったことが現れ始めてきて、若い頃はよかったなどと思うのでしょう。

花は必ず枯れていくように、命あるものは必ず死への方向へと歩みを進めていく。老い枯れの美学というものはいつ頃からなくなったのだろう。「わび」とか「さび」とか言うのは日本が世界に誇るべきものだと思います。最近ですと日本の方よりも外国の方の方がそういった感受性に敏感なのかもしれません。

壊れたらすぐに取り替えて、古いものより新しいものの方がすばらしい。新しい機能が次々と付加され、電化製品などは新しいものの方が使いやすい。「古い掃除機やから吸わへんわ」などという。そんなことはない。掃除機なのだからゴミは吸うだろう。新しい機能付きの掃除機に比べたら吸引力は弱いのかもしれないが吸うには吸うだろう。

すぐに新しいものと取り替えていく。大量消費と大量生産の時代。壊れたり飽きたらすぐに取り替える。

モノだったらそれでもよかったのかもしれない。人間の身体だったらどうだろう。壊れたからといって取り替えてしまうのだろうか。飽きたら別のものに交換するのだろうか。モノだったら取り替えて身体だったら取り替えない。今のところ、そう簡単に身体や人生を取り替えたり交換したりすることができないから自分の身体や人生を大切にするけど交換できるようになったら、もしかしたら簡単に交換してしまうのかもしれない。すぐに飽きて交換してしまうことに慣れても来たからまったくもってありえないと否定することもできない。

 

花は必ず枯れていく。

椿は武士の間ではそれほど縁起のいい花ではなかったそうです。それは散るときに花がドサッと花の付け根から落ちる。その散りようが斬首されたようで縁起が悪いとされたそうです。

日本の桜。とても人気のある花です。桜がきらいだという日本人はなかなかいない。いたとしたら何かその人特有の理由があるはず。だいたいの日本人が桜を愛しています。その桜でも満開の桜が好きな人と桜吹雪が好きな人がいる。同じ桜でもその感受性は異なります。桜は散り際までもが美しく私たちの心を掴んでいます。

もうひとつ、紫陽花はいかがでしょうか。紫陽花は雨の多い季節に咲きます。「雨」といったら「紫陽花」と答える人もいるくらいです。紫陽花はいかがでしょう。紫陽花の散り方は桜のように花びらが舞い散るのではなく椿のように落ちるのでもない。紫陽花は紫陽花の姿のまま徐々に枯れていくのです。赤や青に綺麗に染まった花が徐々に茶色くくすんでくる。そして終いには花全体が茶色くなり、枯れていくのです。紫陽花の枯れ方を好ましく思わない人もおられます。

 

花にもいろいろな枯れ方、散り方があるように人間にもそれぞれの枯れ方と散り方があります。人間が生まれ、老いて行くというのはある種宿命めいたものです。それが自然の流れであり摂理でもある。その流れは留まることがなく巡り巡っている。勢いがあるときから徐々に勢いが止んでいく。いつまでも若くありたいというのは自然の流れや勢いに逆らっているようにも思います。案外勢いがあるときの方が人生を雑に生きているようにも思えたりもします。

 

誰しもいい枯れ方、いい老い方はしたいなと思っています。勢いがあるのがいいのではなく勢いがないのが悪いのでもない。相応の勢いがあり、勢いに応じてやることがあります。

 

風姿花伝から。

この口伝に、花を知ること。まづ、仮令、花の咲くを見て、万に花と譬へ始めし理を辨ふべし。

そもそも花と云ふに、万木千草において、四季折節に咲くものなれば、その時を得て珍しきゆえに、玩ぶなり。

~中略~

何れの花か散らで残るべき。散るゆえによりて、咲く頃あれば珍しきなり。

この口伝において、能の「花」を知るためには、まず、植物の花の咲くのを見て、それによって、ほかの事象を花でたとえることになったわけで理解するがよい。

いったい、花というものは、あらゆる草木において、四季の時節に咲くので、ちょうど咲くべき時に咲くのを新鮮に感ずるため、人びとが賞翫(しょうがん)するのである。

~中略~

どんな花でも、いつまでも散らないで残るものはない。散るゆえこそ、咲く時節になって咲くのが新鮮なのだ。

これこそが機というものではないかと思います。

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