以前noteに以下のような記事を書きました。
ここで焦点となっているのは、持ち味というところです。
自分が考えていることが、伝えきれていないというのは、読み直せばその度に思う所でして、大変申し訳なく思いつつも、このことについてみなさまも環あげていただけたらと思っています。
持ち味というと、素材そのものの持っているものを如何にして活用するのかということにも繋がるのではないかと思います。持ち味を活かしたもの、素材をふんだんに活用しているものって一体な何だろうと?と考えたときに、私の頭の中には料理、食べ物が一番に浮かんできました。
持ち味、素材を活かすことと言ったら、その他にも教育とかお仕事、自分自身がどう生きるかというようなことにも繋がるようにも思います。
「それができたら苦労はしない」ものなのかもしれませんが、そう一筋縄ではいかないのも事実である。
それはさておき、持ち味を活かす、素材を活かすということには活殺の技法があります。
どのような持ち味のものであれ、どれだけ素材に恵まれているものであれ、活きなければそれは死んでしまう。反対に素材に恵まれていなくても、持ち味を最大限に活かすことができたら、それは整体でいう所の全生にもつながることであろう。
活かすも殺すも取り扱うもの次第。
どちらにせよ、活かすか殺すか、これが重要なのである。
整体では活殺の技法というものがあり、下手をすると殺してしまう。活かすという技術も大切なのでありますが、人間の命やその勢いというものを大切にしようと思うと、活かす技法だけではなく意図的に殺す技法もまた重要なのであります。活殺の呼吸というものを観察していかなければいけないなと思う所存です。
最近読んだ書籍に書かれていた一節です。
食品原料の特質を殺し、形を変え、色を変じ、味を別にして、一見一喫して、なおかつ、なんの原料によってつくった料理であるか、素人には容易にわかりにくいものにし、得意の鼻をうごめかすふうがある。これはだんせん悪道の所作、あくまでも排斥しなければならない。料理の本義はどこまでも、その材料の本来の持ち前である本質的な味を殺さぬこと、これが第一の要件である。
私たち自身も如何に加工されてきたものだろうか。私たちは私たち自身を活かすことができているのだろうか。
目に見えない時代の第九運。
そのように私たち自身を見つめてみるのもよいのではないかと思います。
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