食事から考える虚実の調和

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美味しいものが好きなのです。
美味しいものが嫌いだという人は、あまりいらっしゃらないように思います。ただ美味しいものを中心に生きている人と、そうではない人はいるのかもしれません。

大事なものは何ですか?と聞いて、美味しいものと答えるのは些かはしたないような気がします。

一日に3食食べる人もいれば、そうではない人もいらっしゃいます。
朝食を抜いた方がいいときもあれば、食べたくてどうしようもない時だってあります。

一日に仮に3食食べたとしたら3×365日ですから1095回も食べる。すごいもんだなと思います。
ちなみに2食ですと730回です。

どうせなら、せっかく食べるのなら、美味しく、楽しく食べたいものです。

とはいえ、いつもいつも拘ったものを食べているかというとそうではありません。いい加減に済ませてしまうこともあります。しかし、食事というのは健康にいいから食べるということもありますが、やはりそれだけではなく楽しみたい。そういった方面もあるようです。

食事を通じた虚と実の探求

顧みれば、人間の生活は虚と実が憑き纏っている。これを乖離することは、はなはだ困難である以上、料理もまた虚々実々の真髄に触れるところがなければならないのは、言うまでもないことであろう。

人間の生活だけではなく、虚と実は常に表裏一体となって存在しています。虚と実を陰と陽に置きかえてみたらなおさらです。たったひとつのものが陰を呈し、陽を呈す。たったひとつのものが人間を作り、人間が生活を織りなしていくのであるから、陰と陽、虚と実が常にあるのは至極当然のことです。

整体を学んでいきますと腹部、おなかで虚と実という言葉が出てきます。おなかの中に虚と実の部分があり、虚であるところは虚のままで、実であるところは実のままで、その中間点はあるときは虚を呈し、あるときは実を呈する。

ある時は虚となり、ある時は実と化す。その事実だけでも虚と実を乖離させて考えることは、仮に机上では可能であっても、実際には困難であると言えます。

ともすれば、人間の生活にかかわることすべてに虚実が存在し、料理においても対象外ではありません。

 

料理という身近な存在から虚実をはかり知る機会を得ることがあると思いますと、3食よりも2食がよいと単純に言い切ることもできないのではないか。
そこにある虚実を味わう機会を逃すこととの対価として、1食省くことは見合っているのだろうか?

いやいや、反対でした。
その1食は食べることによる弊害を引き受けてでも、食べるに値するのか。

どうせ食べるなら真剣に食べようと思います。

季節が織りなす共鳴

たとえ一家の中においてすら、すでに老人の好むところ、若い人の好むところ、男の好み、女の好み、子どもの好み・・・とさまざまである。しかも、これらの人々の腹加減、健康状態、時と場合など実に千差万別である。衣服に四季別々さまざまあるように、料理にも四季さまざまの働きがある。

整体では季節のお身体ということを考えます。四季、季節というのはある意味で言うと、万人に平等に与えられた環境因子だからです。老若男女、お金持ちもそうではない人も平等に季節はやってきます。暑さ寒さを克服する手段に違いはあるのかもしれませんが、それでも暑い日は暑いのです。暑い日には心臓が疲れますし、寒いと腎臓に負担が来る。草臥れや負担は個人差もあるのですが、暑い寒いは平等にやってくる。地球上に生きる条件として、重力と季節、日照などの比較的、普遍的な因子は欠かすことができません。

 

しかも、加減というものもあるのですから、人間というものは兎角じっとしているのが苦手なんだなと思います。腹具合も頭の中もつねに運動会をしているのが人間の特性なのかもしれません。

個人個人の身勝手にはついていけませんが、四季折々のものを四季を愛でながら召し上がるというのは、バラバラで乖離された人間が共通項を探し求める手段になり得る様な気がしています。

無意識から意識へ

美を意識し、おのずから美を取り入れざるべからざる「人」の生活は自然の天与であって、誰の所業でもない。

誰ともなく花を飾る。

そこに調和を見出し、花ではないものを愛でる。

さて、すべては与えられている、すべては完璧である、足りないものない、すでに成っている、ということは、こういったところに現われるのではないだろうか。

 

師匠はこのように言いました。
一言一句は合っていないですよ!ニュアンスだけお届けします(笑)
息をする。息をしようとすると多くに人は吸おうとします。息は吐くことからすることです。
息を吸うことは本能です。それは溺死体の肺の中に水が溜まっていることからも証明できます。本能的に人は助かろうとして息を吸うのです。息を吐くということは意識的にしないとできません。

われわれは一度吐くから、自然の中の天与を享受できるのではあるまいか。そしてそれは美を現わし、無視することができなくなる。

最近言われている、ていねいな暮らし、ていねいな生活というのはこういうようなことをいうのではないでしょうか。息を吐くことで私たちは美を得ることができる。こんなにうれしいことはないように私は思います。

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