中国語を学んでいます。
台湾ご出身の先生から直接レッスンを受けています。わたしの目標は中国語がペラペラになるのではなく(もちろんペラペラになるに越したことはありませんが・・・)読み書きができるくらいになりたい。せめて何となくでも読めるようにはなりたいと思っています。ちなみに北京語だそうです。中国ではいろいろな言語があるのですが、日本で言うところの標準語が北京語だそうです。
わたしの中国語の先生は台湾の方なのですが、12歳の頃に来日なさっておられますので日本語もペラペラ。そんじょそこらの日本人より上手に話します。会話をしていても普通に日本人と話すように日本語を話されます。そのうえで中国語の発音を聞くことができますのでとてもありがたく思っています。日本語があまり上手ではない外国語の先生だとうまく行かないことも多いみたいですね。
以下は張 楚靈/Chuling Chang先生のご紹介先へのリンクです。
レッスンはChuling先生と一緒に中国語の文章を読んでいきます。先生がいろいろと課題の文章を考えて来てくださる。いずれは四柱推命や風水、易の中国語バージョンの書籍を課題図書にして詠み進めていけたらなぁと話しています。
先ほどChuling先生は中国語も日本語も上手なのでとてもありがたいということを書きましたが、文章を読んでいくにあたってぶつかる壁がニュアンスです。中国語で言うと○○を日本語のニュアンスで言うと○○というのが難しい。中国語の表現と日本語での表現。これはこれっていう風にイコール文にならない。文章の意味を解読していくうえでも両方のニュアンスがわかるというのは大事なことだと思いました。
課題文の一例をご紹介いたします。
如何接受宇宙能量加持?
佛教之佛法非迷信、非宗教信仰、乃是宇宙萬法之真理真相!它是講真、講實、解開宇宙萬物的起源以及所有事物之間的相互関係。
~(中略)~
當你要打開心量、連結宇宙時你要先譲自己内心平静、身心安頓、然後一心專注的進入以下冥念冥想:我不僅是肉體的存在、我是充満愛與智恵的霊的存在。在我體内有無限的力量、無限的慈悲和無限的智慧。我乗持真心、願意謙卑地向萬事萬物學習。毎個人都是我的老師、萬事萬物都是我的老師。我願意更柔軟、更寛容、更友善待人。我知道、生活中所有的困擾、障礙、都是我自己的想法所造成的。我願意勇敢面對並妥善處理人際関係中的糾葛、不再逃避。
毎當内心起伏的時候、我可以從中覺殺察到我的盲點和問題所在:毎當我感覺内心不平静的時候、就是我向内看的機會。這一路上我根本不擔心:因為我願意改變、我内在的智慧會引導我如何反省、如何去愛與被愛。我感覺很有力量、很有勇氣。我不會迷失、從不孤單、因為愛與光明一直引導我走在正確的路上。
我相信,一切都是上天最好的安排。我們經受的所有苦難挫折,都有它特別的理由。當別人指責我時,我會謙虛地反觀自己。當我被人誣衊、曲解、攻擊、譭謗時,我不會怪罪別人。我願意因為我的受苦而能理解別人的苦,或降低別人的痛苦。不論發生什麼事,都不會影響我內心的平靜,也絕不影響我關愛他人的能力。這就是我真誠的愛心;我愛得越多,我感受到的愛也越多。我無畏施愛;我愛得越多,我感受到的愛也越多。
所以,每當別人對我不友善的時候,我不會直接去批判或指責。我知道當他們在攻擊時,其實是在表達他們是需要幫助的;他們是在求救,他們正在呼喚需要給予愛心幫助。這個時候我願意更加敞開,不再封閉我的心。當我的心越開放,我就越能理解:對方任何不理性的行為都是在呼喚愛。有理解就有愛,我願意學習用愛來回應一切。
我越是深入地感受自己,就越能感受到別人的心。我越敞開自己,就越能幫助別人敞開。我看到,他們其實是慈悲的化身,他們在犧牲奉獻,扮演這個不受歡迎的角色,來成就我生命中的功課,感謝他們!我在所有的關係中,保持良好的互動。我從每一個人身上學到愛。我重視每個人的存在。我以慈悲友善之心對待萬事、萬物。
~(途中まで)~
日本語訳です。
宇宙のエネルギーを受け取るにはどうしたらよいのでしょうか?
迷信でもなく、宗教的信仰でもなく、宇宙の真理なのです 。それは、真理、現実、宇宙のすべてのものの起源、そしてすべてのものの相互関係を解き明かしています。
~(中略)~
心を開き、宇宙とつながりたいときは、まず自分自身を内なる平和に導き、心と体を落ち着かせ、次の瞑想に集中することが必要です:私は単なる肉体的存在ではなく、愛と知恵に満ちた霊的存在です。 私の中には、無限の力、無限の慈しみ、無限の知恵があります。 私は誠意と謙虚さをもって、あらゆるものから学びたいと考えています。 すべての人が私の先生であり、すべてのものが私の先生です。 私はもっと柔軟に、もっと寛容に、もっと他人に親切にすることを望んでいます。 私の人生におけるすべての問題や障害は、私自身の思考の結果であることを知っています。 私はふくざつに絡み合った人間関係の問題から逃げずに向き合い、対処していきたいと考えています。
心の内側に波があると、自分の盲点や問題点が見えてくる。心の内側が落ち着かないときは、内側を見つめるチャンスなのです。 そこにいる私はまったく心配していません。私は変化することを望んでおり、私の内なる知恵が、どのように反映させるか、どのように愛し、愛されるかを導いてくれるでしょう。 私はとても強い力を持っています、とても勇気があります。 愛と光がいつも正しい道に導いてくれるから、私は迷わないし、決して一人ではないのです。
すべては神様の適切な采配だと信じています。 私たちが耐えている困難には、すべて特別な理由があるのです。 人から非難されると、謙虚に自分を見つめ内観する。 私が中傷され、誤解され、攻撃され、誹謗されたとき、私は他人のせいにしません。 自分の苦しみがあるからこそ、他人の苦しみを理解したり、他人の苦しみを最小限に抑えたりできるようになりたいです。 何が起ころうとも、私の心の平和や他人を気遣う能力には影響しないのです。 これは私の心からの愛です。愛すれば愛するほど、愛が深まります。 私は恐れることなく愛します。愛すれば愛するほど、愛を感じます。
だから、人に不親切なことをされても、直接批判したり非難したりはしない。 彼らが攻撃しているとき、実は助けが必要だと言っているのです。助けを求めているのです。 心を閉ざさず、もっと心を開いていこうと思う時です。 心を開けば開くほど、相手のどんな不合理な行動も、愛を求める叫びであると理解できるようになるのです。 理解には愛が必要であり、私はすべてのことに愛を持って対応することを学びたいと思っています。
自分を深く感じれば感じるほど、人の心も感じられるようになる。 私が自分をオープンにすればするほど、他人がオープンにするのを助けることができます。 彼らは実際に思いやりを体現しているのですね。彼らは私の人生における教訓を果たすために、犠牲を払い、この人気のない役を演じているのです。彼らに感謝します。 私はすべての人間関係において、良好な交流を保っています。 私はみんなから愛を学びます。 みんなの存在を大切にしています。 私はすべてのものに思いやりと優しさを持って接します。
~(途中まで)~
日本語訳は引用ではなくレッスンを思い出し思い出し書き起こしたので、変な文章になっている部分もあるかと思いますが、何となくうまくできたような氣がしています。
あまりなじみのない文章だったかもしれませんが、目に見えないものに対する興味、探求心、信頼というのは国が違っても変わらないものなのだなと思いました。日本でも瞑想(愛光流では明想)というものに対する関心が高まっています。目に見えるもの、物質的な不完全なものに疲弊し幻滅した多くの人が次に求めるのはこういったものなのかな、と。宗教チックでオカルトチックで日本では敬遠されがちですが世界、アジアの大国中国では積極的に取り入れようとしているようです。
Chuling先生と話していたのですが、中国では仏教的概念が日常的に散りばめられていて友人と話をしていても仏教用語とか仏教的な言い回しが多いそうです。仏教が心の奥底にあり、そこから生まれてくる価値基準や判断基準などがあると。日本で言うところの道徳心のようなもの。中国人の道徳心や価値観は仏教的なものが潜んでいる。日本で言うと神道がそういう部類に入るのかもしれませんが、日本はどちらかと言うとごちゃまぜ文化なような氣がします。拠り所。ごちゃまぜのわたしたち日本人が拠り所にするのは帰るべき場所なのだな、とChuling先生と中国語の勉強をしながら思いました。
語学を学ぶということはその国の人々の感性を学ぶことにもつながるのだと思います。日本は整体の体癖で言うところの上下型の国であると言われています。世界は前後型化して行っています。中国という国の体癖は何なのでしょうか?
レッスンは週1回2時間。語学と同時に感性もレッスンしているのだと思っています。毎週楽しみにしています。
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