その本当の意味が解らなければ「吾、実在の中に在り」という言葉は出せない。I amという言葉の意味が解って初めて、あなたたちは津からの言葉を学び取ったことになるのである。
「私は生命である」神の生命がわたしの中で生き給うが故にわたしは生きている。生命は神であり、神は生命である。
最近読んでいる本の中の一節です
どうしてこの文に強く惹かれたのだろう?
吾は光なり・・・の吾は何を指すのだろう?
何も考えずに、吾=わたしと思っていた
そのことに気が付くだけでも、そのこと自体がすごいことなのだと思う
まるで自分だけの秘密、自分が発見したゲームの攻略方法のようだ
でも経験があって、第一原則の光の位置、自分の置く位置について気が付いたことを誰かにシェアして、がっかりした記憶がある
がっかりなんてしなくていいのに、がっかりした
記憶・・・自体が肉体由来のものであり、吾でも、光でもないところにあるもの
こういったことの積み重ね、オートマチック加減が、吾を本当の吾ではなくしていく
いちいちマニュアル式に吾を決定しないと、オートマチック吾は、いつまでも吾をだまし続けるんだろうな
Rボタンで加速したり、Lボタンでカーソルを移動させたり、そういった出会った頃にはマニュアルだった出来事も、いつの間にやらオートマチックになって行く
吾の設定
吾のマニュアル設定からのオートマチック化
わたしとは何か?ではなく、本当のわたしはこうだったんだっていう気づき、体験
その本当の意味「吾、実在の中に在り」「I am」
吾が実在だとオートマチック的に認識できていないと、力の言葉は出ない
わたしたちはまだまだ力のない、空虚な言葉を吐いている
力の言葉は空虚ではないわたしたちから生み出されるものであり、力の言葉を知らないものは、まず力の言葉を学び取る必要がある
この場合の学び取るは、経験すること、体験することなのだろう
生きていること、生命がすばらしいということは、吾がいる位置によっても異なるのだ
吾は実在に在り
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