人間には「この人は一貫している」と見てもらいたい気持ちがあるそうです。一貫性が時には正確性よりも重視されることすらある。と
けんすうさんという方のnoteを読んでいました。
一貫した態度=キャラ という風にするとイメージしやすく、わかりやすいと思います。
けんすうさんのnoteではインターネット上における匿名性と日本人の特性について書かれていました。文脈や関係性、環境に依存して個人を決定づけるわたしたち日本人ですが、忠臣蔵に代表されるように「一貫している」ものに惹かれるのも事実。
わたしたち自身を考えるきっかけになったらと思います。
そもそも「一貫」ってどういう単位のことを言うのだろうか?調べたらいいものの調べようともしないのですが何となく突き抜けた感じがします。でも「一貫」って現わされている以上グニャグニャしているのではなく、一本芯が通っている感じ。そして「一貫」がおそらく最上級で「二貫」とか「三貫」というように使用されることはなく、「二貫」とか「三貫」が使われるとなると、そこには侮蔑的感情を含む。「一貫」になった途端、尊敬や憧れの存在に変わる。とにかく唯一無二であり、変わらない普遍的なもの、少々の障害では屈しない不屈の精神を感じます。
整体の体癖でいうところの「捻じ型」なんていうと「一貫している人」のイメージに合う気がする。「一貫」って捻れ型っぽい。「捻れ型」ってリーダーシップがとれる人が多くてチームを引っ張っていったりまとめたりする存在。「捻れ型」の人が時代を切り拓いていったんだなと思います。そういう「捻れ型」こそが「一貫している人」のイメージ。時代を切り開くほどのリーダーが「一貫していなくて」あっち行きこっち行きしていたら、付いていく人も付いて行けなかったでしょうし、時代を切り開くほどの大きなことを為し得たとは思えない。
「一貫している」とみられたいということは「一貫している」ことが難しいということなのかもしれない。「一貫している」自分でありたいと思っていても別の「一貫している」人とぶつかることになれば戦うか従うかしかない。
「一貫している」自分を分散して持つという一見して矛盾していることが起きる。何通りにも「一貫している」自分。世の中は複雑なようです。
家では家でのキャラ。会社では会社でのキャラ。関係性や環境によってキャラを使い分けている。そうやっているのだろう、おそらく。そうすると「一貫している」ということ自体、イメージや意味を考え直さないといけない。
「一貫している」けど「一貫していない」。それでも同じ自分なのである。
そりゃ恋人の前では甘えたいし、後輩や部下の前では虚勢であっても強くある。結局はどちらも同じ自分なのである。
相手、環境によって変わるのならば選択権はこちらにはない。勝手に相手が設定してきて、それを演じる。コントや演劇のようなもの。人生そのものがそう言ったものかもしれないな、と思う。それを自分自身は「こうだ」とやり切ろうとするから失敗するのかもしれない。もはや諦めの境地かもしれないが求められるものを演じるのもよいかと。演じることが職業の俳優さんだって、営業マンだって評価を受けるのは自分自身が「こうだ」とやった場合ばかりではあるまい。実社会と思っていたものに台本があって、それを延々と演じている。ほんとうの現実は幕の向こうにあるのだ。
依代的文化・・・自分ではない他の人に何かを言わせたい。戦時中の「陛下のお気持ちを察して・・・」というあれ。責任の所在をあいまいにする効果がある。
依代的文化については日本人らしいなと思う。けど、どちらかというとカッコ悪い。大義名分が必要なわたしたち日本人からすると、私自身も依代なんだろう。そうか、日本人には文化という文脈で依代的な才能があるとして、ずっとずっと考えていたらわたしたちは生きているのではなく生かされている。そのことを何も無理することなく受け入れることができる。「わたし、わたし」で足掻くのもいいが無理することなく、真我がわたしを導く、でいいのではあるまいか。
元々の才能があるのだから、「誰が」とか「何が」とか「わたしが」とかいうのではなく「真我が」というルールにしてみてもいいのではないか。そもそもそれがルールなら今更ながら従ってみよう。
どうしてかわからないが元気が出ました。
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