見えないモノが動かしている
人間の身体は箱モノである
人間の身体、肉体というものは入れモノであって、その中にたったひとつの命が宿ることによって人間は人間として動くことができる。考えることもできる。
生きている人間、命が宿っている人間が炎天下の中で作業をすると熱中症になるか、汗をかきながらも動き続けるか、疲れてやすむか、気温とスケジュールと相談して休みにするかを決めます。
炎天下の中に命の宿っていない人間を炎天下の中に置いておくと腐敗が始まります。
この違いは何なのでしょうか?前者と後者の違いは命があるかないかだけです。命があると人間という箱モノは動くし、考えるし、腐らない。片や命がない箱モノは動きもしなければ、考えることもありません。腐敗もします。
そう考えると、いまこれを書いているぼくも、読んでくださっているあなたも命であるとしか言いようがない。
人間は人間であると思っていて、他の誰とも違うかけがえのないものだと思っています。それゆえに個人個人に悩みや想いがあって、姿かたちの見た目も違えば、異なる感情があります。
イケメンや美人、お金持ちもいれば、そうでない人もいる。
見た目やお金のあるなしという違いがあるように思えるけれども、命という見えないものが宿っていないと人間は動くことも人間という形式を維持していくこともできないのだ。
どこにも書いていない原動力
ぼくは理学療法士になる前に、なってからもですけど解剖学を学びました。学生のころは解剖の実習にも出かけました。その時に観た実際の人体でも、どの解剖書でも命は掲載されていなかったです。何か塊のようなものがあり「これが命です」とか、身体内の奥底に臓器の一部のようなものがあり「これが魂です」とか解剖書に載ってある。そんなことはなかったですね。
ただ理学療法士時代に読んだ本の中に
亡くなった人の重さは亡くなる前に比べてほんの数グラム軽くなっている
そうです。
この数値を忘れてしまいました。。。数グラムか数ミリグラムか思い出せませんが、ごくごくわずかな重さです。
その重さが人間の命や魂の重さだ
と。
「これが命です」とか「これが魂です」とは書いてなかったですけど、重量にしたら測定できるらしい。
人体の中でなにか解剖学的になくなったり、消滅したものはないにもかかわらず、です。
そう考えると、命というものがないのか?それともあるのに見えないだけなのか?です。
命と言ったり魂と言ったり、この場合どちらの表現でもいいかと思います。この記事では命で統一しますね。
この命という目に見えないものが人間を動かしたり、考えたりをさせています。
「目に見えないものは信じない」そういう人は極めて片側しか見ていない人になります。片側だけしか見ない、理解しないということは目減りした世の中を見ているということです。見えるものだけ、という人はいつも満ち足りていないことになります。良くても半分なのですから。相当に謙虚で遠慮がちな人なんだなと思います。
ぼくの拙い経験から思い出すもの
これまで人生を生きてきて、お葬式というものに何度か出たことがあります。
近所の人の親類の人とか比較的自分の日常生活にかかわりのない人のお葬式に出席することもあれば、自分の日常生活やこれまでの人生において割りと大きな比重を占める人のお葬式にも出席したことがあります。
こういった冠婚葬祭と呼ばれる儀式の数々は人生を少しでも長く生きて、経験していくと参加する機会は増えてきます。
比較的人づきあいが少ないと自認するぼくでもそうなのですから、友人知人が多く、義理堅い人からすると誰かの冠婚葬祭の儀式に参加することは日常的なことなのかもしれません。社会的地位のある人になれば、そういった儀式に出席することがお仕事というか、お仕事につながる人もいるかもしれません。
ぼくは自分が比較的近しい人のお葬式に出席して、お顔を拝見しました。あまり知らない人のお顔を棺の上からのぞき込むようなことはしませんが、近しい人になると、棺に花を入れたり、棺を担がせてもらったりしました。
棺の中のお顔を拝見した周りの人たちは「きれいな顔をしている」とか「おだやかな顔をしている」と言われます。
たくさんの亡くなった方のお顔を拝見したことがないぼくからすると「そういうものなんだ」と思うだけなのですが、生前に親交の深かった方のお顔を拝見すると、いつもぼくの知っている故人ではないようなお顔をされています。
改めて、初めてその方とお会いするような気分にもなります。
親交が深かった人だけに、その方の面影を思い返し、悲しい気持ちになるのですが、面影を探さないと見つからない。そこに寝ている方はおそらく間違いなくその方だろうに、別人のように思えて仕方がない。
多くの人が、親しすぎる人の死を受け入れられ難いのには、こういった部分もあるのではないだろうか。
ぼくの場合も、ぼくが持っていた故人とはまるで違いすぎるのです。
ぼくは何を見ていたのだろう?
ぼくは多分故人の命を見ていたんだろうな。故人の箱モノに入った命を見ていたから、棺の中の故人がわからないんだろう。
こういったことはぼくだけの経験なのかもしれません。多くの人が棺の中の故人に生前の故人を見ているのかもしれない。それはぼくではないのでわからないが、ぼくは別人のように思ってしまいます。
ぼくが今日会う人、昨日会った人、これまでに会ったことのある人、テレビや何かで見かけた人。そういった人たちのぼくは命を見ているんだ。
目に見えないモノがほんとうは目に見えていて、そばにあるモノなのです。
まとめ
人間は身体や肉体があり、それによってこの世に存在しているかのように思っている。
しかし、身体は命という原動力を入れる箱モノであり、命がないと人間は人間らしい活動をすることも、その肉体を維持することもできない。
このことは誰にも証明できないことではあるのですが、状況証拠的なものはいくつかあります。それが生きている人の重さと亡くなった人の重さだったり、解剖の話だったりします。
どうして証明できないかというと、目に見えないからです。
過去これまでにも人間は肉眼では見えないモノを見えるようにしてきました。ウイルスや菌なんていうものは肉眼では見えません。電子顕微鏡など視力を強化することで目に見えないものを目に見えるようにしてきました。
ただ、視力をこれ以上強化しても見えないものはあるようです。なにかを投影してみているものが命かもしれません。
いまの証明の仕方では目に見えないモノを証明する手立てはありません。ただあるんだと言うしかありません。興味のない人にとってはどうでもいい話なのかもしれません。
ただ、この世の原理原則を考えた場合、目に見えないモノの存在を理解し、受け入れることから始めたほうがいいように思うのです。
運も縁も信頼も愛も見えません。でも意外と信じています。友情とか絆とか。一切見えません。
「見えるモノしか信じない」この観念を捨て去り、寛容になることがこれからの時代に重要なことだと思います。
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