「みえる」ということについて考えています

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「みえる」ということについて考えています。

 

眼からの情報に頼っている

わたしたちは視覚情報、つまり眼からの情報に頼っています。学生のころの話ですが障害者施設で全盲の方の感覚を模擬的に再現できる装置を試用させていただきました。全盲の方の感覚。それはほんとうに暗闇の中にいます。わたしたちは閉眼していても何となく光を感じたり、明暗という感覚があるのですが、全盲感覚はまるで何もない暗闇の世界でした。

一番先に来た感情は「恐怖」と「驚き」。わからないという恐怖、驚きでした。

わからないという恐怖、驚き。わからないという発生源があり恐怖や驚きが生まれる。どうしてわからないのだろう。しばらくしたら手探りを始めたりして何かしらの方法で情報を得ようとしました。眼という媒体で情報を得ることができないことに恐怖と驚きを覚えたのだと思います。

普段からわたしたちは視覚からの情報を最優先していて、視覚が無理だってなったときに「恐怖」や「驚き」を覚えたのです。

 

眼でみているものだけをみているのではない

眼でみているものからたくさんの情報を得ているのですが、そればかりではないものもみています。夢や希望はみるものであり、描くものでもあります。しかしその形や色は眼にはみえないものです。絆や愛情も眼でみることはできません。しかしそこに存在し、感じることができます。

みればわかるような眼なんてしょせんそれだけの眼なのだ

これは青山次郎の言葉です。さらに氏の言葉は続きます。

眼にみえる言葉が「書」なら手に抱ける言葉が「茶碗」である。

実際に「茶碗」を抱いて寝たことがあります。「壺」でも試してみました。どちらも知らないうちに手から離れていて、朝には布団の外で向こうを向いて転がっていた。

「書」や「茶碗」のことがわかるというのは眼でみてわかるというものではないような気がするのです。長けた人でも疑わしいのに素人の「書」をみる眼や「茶碗」をみる眼がわかっているとは思わない。わかるというのか?ここで言うとみえていないということになるだろう。

素人は「書」をみても「茶碗」をみても、みえていないのだ、と。

 

わたしは「書」も「茶碗」も素人ですから「書」や「茶碗」の前では何もみえていない。ところが身体のことは多少学びましたからそうでもない。腰痛の人の歩き方はみれば「腰痛だ」とわかりますし、重心がどうなっているのかもわかります。一般の人からしたら「重心」というのも存在しているのだろうけど眼ではみえません。それがわたしからするとみえるというのだから、まずまずとは思いませんか?

眼にみえる言葉が「書」なら手に抱ける言葉が「茶碗」である。

わたしは重心や腰痛の身体を観ながら、その人の言葉をみたりきいたりしているのだ。そのように思うと整体の技術が何となくしっくりと来る。

 

みえないものがわかるには

みえないものは存在しています。思っている以上にたくさん存在しています。

意外とそれを信じて生きてもいる。とくに日本の人はそういう傾向が強いのではないかと思っています。これは希望的観測も入っていれば、なくしてしまった、なくなりつつあるものを憂いていたりもしています。ただ競争社会や拡大経済社会に疲れてしまって立ち止まりたいのに立ち止まることができない人もいて、みえないものでもみえているものとみえていないものが存在しているのだと。責任や重圧はみえないです。義務もみえません。でも存在してわたしたちを苦しめる。そうではないみえないものも存在していて、そちらの方向もみる機会を作ってはいかがかと思います。

日本の美学は何一つ生まれなかった。同時に理解もされたことがない。

こちらも青山次郎の言葉です。

「美学」という感覚は人それぞれ違うものではありますが、意識している、していないに関わらず誰もが持っているものであると思います。「美学」も注意して取り扱わなければ、すぐに牙をむいてくる。氏の通り「美学」は「理解」されなくてはならない。わたしは「美学」は現代の肩や頸のようにすぐに硬直してくるものだと思っていて、硬直することで害を生じる。これも肩や頸と同じこと。凝り固まった「美学」は誤った「思想」へと発展し、圧力を伴う。ちょうど第二次大戦の時の日本の状態のようなもの。誤った美辞麗句が誤った方向へ導いた。

「美学」も「理解」も眼にみえないものの、たしかに存在している。物体としてあるわけではない、みえるものではないの。しかしそこに確実に「美学」は存在し、誰かを介して「理解」されるものなのだ。誰かからすると「美学」は触れたり抱いたりできるものなのかもしれない。

 

言葉とみえるについて

 

みえるということについて構造的にわかっておくことも必要なのかもしれません。

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眼でみたものはいろいろと経路をたどって最終的に視覚野と言うところに行きます。これは大脳の後頭葉というところで後頭部の方にあります。視覚情報は大脳の表層の後ろの方に入力されます。

みえるということについて考えてみましたが、いったいわたしたちは何を持って「みている」のでしょうか。

視覚野には「美学」も「責任」も「理解」もない。「書」もあるにはあるが「書」の「書」たる所以はない。

 

もうひとつ考えてみますと、「みている」ものは「現実」なのでしょうか。みていないものの中にも「現実」は存在し信じてもいる。信じているかどうかということを考えるまでもなく当たり前のように存在している。

眼にみえる言葉が「書」なら手に抱ける言葉が「茶碗」である。

 

言葉をささえるものは論理ではなく、論理をささえるものは言葉である。イメージをささえるものは思想ではなく、思想をささえるものはイメージである。

みえるとか現実という論理をささえるものは言葉なのです。言葉とは「書」であり「茶碗」です。

思想さえもイメージがささえている。

 

わたしたちは何をみているのだろうかと。

「みえる」「みている」ということについて最近は考えています。

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