理想の罠:焦らず、味わい深く生きるための提案

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ホームページに書く内容はお知らせや告知もそうですが、できるだけ私の考えや日々のできごとなども書いていきたいと思っています。

整体の知識、身体の健康についてのこと。
四柱推命から命理、運命についてのこと。
風水から相としての改善方法についてのこと。
たまに易の内容を書いたりもします。
明想についても書いたりしています。

そういった情報だけに囚われずに書きたいと思います。

 

最近読んでいる本の中から氣になった一節をご紹介したいと思います。

これはこれでシリーズ化しても面白いのかな?と考えてもいます。

単に私自身の備忘録のようになるかもしれませんが、それはそれで振り返ることができたり、時が経ってもう一度原書を読み返した時に、また違った受け取り方ができるようになっているものおもしろいのではないかと。

 

理想と理想化との違い

理想化は焦って成果を求めるという問題を引き起こす
~中略~
現実を理想化されたものに置きかえてしまうと、絶対化を招いて、画一的になり、形式主義を招きがちです。
理想はなければなりませんが、理想化してはなりません。

理想と理想化との違い。

私たちは理想というものは大事なものと認識していて、ビジネスの世界でも実生活の場面でも重要視される。とくに企業や組織の中では理想は重要で、理想のない組織は売り上げなどの数字を追い求めるあまり疲弊してしまうというのはよく聞く話です。

それ故に理想を掲げ、理想に向けて一致団結し、課題を克服していく姿は莫大な力を生む。売り上げや数字ではない理想という生身の感覚に近い観念に近づいていくための原動力になる。

それを現実化するために、人は労を惜しまないのだろう。

二分化が排除を生む

このように理想は、社会において正しいこととされているように思います。
しかし理想化することで、ある種の正解が生まれてしまい、正解を求めるがゆえに新たなる闘争が生まれるのではないか。

理想化ということが手段となってしまい、理想化から導き出された正解以外のものは排除されていく。

正解とは違うのだから、「あなたの行動は間違っている!」正解とは違うのだから「あなたの考えは危険だ!」というように。

そして排除されたくない、批判されたくないという思いから、自分の頭で考えることをやめ、自分で感じることをやめ、理想化から導き出された正解を盲目的に信じ、排除する側にまわろうとする。

正解はどんどん研磨され、研ぎ澄まされていく。

正解を求めるが故に失敗をおそれ、間違うことをおそれ、それらを排除するようになっていくのではないかと思うのです。

これは最近のコストパフォーマンスを追い求める傾向やタイムパフォーマンスを求める傾向に通ずるのではなかと思います。

最近ではコストパフォーマンスやタイムパフォーマンスが低いものをやりたがらない傾向にあるようです。
いわゆるネタバレのあるものを好むようです。
多くの商品や作品、お店に関してもレビューが存在します。レビューでもそうですが、ほぼ内容が書いてありますし、それによってこのような効果が得られたということも書いてあります。

そうやって失敗や間違いがないようにしているのだと思いますが、だったら私が選ばなくても、誰かが変わりに選んでくれているだけで、別に私が選ばなくてもいいでないか、これを選んでいるのは本当に私なのだろうかと思ってしまいます。

〇と×、正解と不正解、勝ち組と負け組。
このような二分割でデジタル式に考えることが本当に正解と言えるのだろうかと私は思います。

正解を追い求めることが、はたして善なのだろうか

こういった正解と不正解を明確に分け、正解を善、不正解を悪とする方式が進むと自ずから画一的なものができあがる。
悪を赦せないと排除する思考が生まれる。

そうなると正解だと思ってしてきたことに対する方向転換が容易ではなくなる。
間違いや失敗から得るものも少ないのではないだろうか。
なぜなら間違いや失敗はそれを認めることから始まるからだ。
排除される不安を常に持っていると間違いや失敗を認めることができなくなる。
間違いや失敗を認め、そのことから学び取り、方向転換をすることができないのではないか。そしていよいよとなると、間違いを間違いと認めない、失敗を失敗と認められないが故の固執も生まれる。

さらに正解を追い求めること、正解とされる行動や思考をひたすらに続けること、そのストイックさに酔い、そこから零れる人を攻撃する。ストイックさを後ろ盾に他人より優位にあろうとする。

こういった傾向や風潮があるのはSNSもそうですし、報道もそうですし、誰かの話を聞いても、見つけることができます。

 

理想化は焦って成果を求めるという問題を引き起こす

という一文がありました。

理想はあくまで一つの形であって、焦って成果を求めるというものではない。

私は理想と現実という言葉が好きではないのですが、焦って急いで手にしたものに碌なものがないというようにも受け取ることができないでしょうか。

酸いも甘いも丸いも四角いも三角も入り混じっているのが、私たちの生活している人間の社会なのではないだろうか。

モノを味わおう

モノを味わうという感受性を多くの人は忘れているのではないだろうか。
味わおうと思うと、ある瞬間は対象物に奪われ、そしてある瞬間から自分の内側に溶け込んでくる。同化していく。

外側世界から内側世界への転換は、焦ることなく急ぐことなく成果を求めるものでもなく、モノを純粋に味わうということからも体験することができる。

そうすると理想を選び取ることも、いくつかの選択肢から選び取るのではなく、理想がそこに現われるのだ。

 

これだけ社会が成熟しているにもかかわらず、なぜ生きにくいと感じる人が多いのだろうと考えていました。

物質的に成熟しているからこそ、目に見えない非物質的な要素を必要とし、そのひとつとして理想や理想化というものあり、非物質的な要素を捉えきれない、扱いきれない社会があるのだと感じました。

目に見えない要素をこれまで通り、目に見える要素として取り扱おうとするから、このような未成熟な社会の構造になっているのではないか。

目に見えない要素が求められる2024年から始まる第九運氣には尺度も変化するだろう。価値観の変化などと称して、ただ物差しが変わっただけの社会がやってくるだろう。それだけでも大変な変化であり、ものすごく労力がかかることなのだと思います。

目に見えない要素。
内側から現る。
このこと自体がある種のネタバレでもありますが、内側から現れるものを味わっていきたいなと思います。

 

参考図書

 

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