魂と命について
肉体が社会を動かしている?
人間には肉体があって、肉体が毎日の生活や社会を形成しています。
肉体、身体が動かないとお仕事をすることもままならないですし、不自由な身体で生活していくことは大変なことです。
「健康って大事だよね」ってなります。
たしかに健康というものはお金で買えない価値がありますし、健康でいられるということはそれだけ活動できる時間があるということですから、それだけでも資産や資本は他の人に比べてもたくさんある。
活動できる時間というものは健康に担保されているといっても過言ではないように思います。
仕事がはかどらない。物覚えが悪い。手際が良くない。
そういったことも他の人よりもたくさん使える時間があれば問題ないのです。
いま、世界のセレブたちが一番欲しいものが健康だそうです。その根底にあるのが彼らの限りない夢や希望、欲望を叶えるための時間が足りないからだそうです。お金ではなく、時間が足りないそうです。
だから世界のセレブは健康に投資をする。それはある意味で自家用ジェット機を買うのと同じ意味なのです。自家用ジェット機をセレブたちが使用するのも移動に対しての時間的コストを削減するためです。飛行機に乗るための面倒な手続き、飛行機に合わせたスケジューリングなどから解放されるためです。行きたいときに行きたいタイミングで世界中どこへでも行けるために自家用ジェット機を利用するのです。
そういった生活や発想はわれわれ庶民には考えつきもしませんが、取引先とのアポイントの時間に遅れそうなときとかは「電車よ!もっと早く進んでくれ!」って思ったり、取引先に向かう車中で赤信号にイラついたりします。
そういったことすべてを肉体、身体が表現します。
肉体はわたしなのか?
朝、出かける前にかがみで自分の姿を確認します。髪がはねていないかな?とか服はどうだろう?とか。
そのかがみに映っている姿が自分だと思っています。
やせたなとか、太ったなとか、肌があれているとか。
動いている自分、触れれる自分、ものを考えている自分。
それらが自分のすべてだと思っています。
では、よくいう命ってどこにあるのでしょう?
命ってたいせつです。
この世の中で一番たいせつだっていう人もいるでしょう。
命を守るとか、失われた命とかいうじゃないですか?
命ってどこにあるんでしょう?
何をたいせつにしたらいいんでしょうか?
命って着飾ったりできるんでしょうか?やせたり、太ったり、鍛えたりできるんでしょうか?
ではちょっと角度を変えて考えてみましょう。
肉体と命は同じものなのだろうか?
交通事故とかで肉体の機能が破壊され、肉体を継続することができなくなると死を迎えます。
死ぬことで命がなくなったと考えますが、死んだ人にも肉体はあります。
もう動くことも考えることもできませんが、肉体はあります。
もし仮に動いたり、考えたり、食べたり、話したりすることが生きている、命があるっていうことなら、もう動かない死んでしまった死体となった肉体は生きているとは言わない。
そう考えると肉体と命とは別物になるような気がします。
法律上も一応そういう定義はできているようで、生きている人間を傷つけたら暴行罪とか殺人罪。死んでいる人間を傷つけたら器物損壊。
いま、生きて、動いて、考えている自分は肉体ではない。そう考えてもいいのかもしれません。
魂と命について
ほかには、命に近いくらい何となくボヤっとした印象を持つものに魂があります。
魂と聞いてどういう印象を受けるでしょうか?
ぼくくらいの年代の人なら魂と聞いてお墓の周りに飛んでいて(とされている)ゆうれいが登場する前に現れる(とされている)火の玉、人だまのようなものをイメージしてしまうのですが、みなさんの魂像ってどんなものですか?
人だまが恐怖を誘うのは亡くなった人間の思いとか残骸がこの世に残っているからですよね。人だま自体を亡くなった人、亡くなった人と関連しているものと考えているから、この世にないはずの人だまに恐怖するのですよね。
じゃあ、人だまは人間なんだ。そう思っている。人だまに続いて登場する(とされている)ゆうれいは確実に人間だった。日本の昔からある怪談話に登場するゆうれいはすべてストーリーがあります。生きている内につのった恨みを持って死んだ、とかね。
こういったところからもおそらく肉体は自分ではないし、命や魂というものが自分なのだろうという結論が導き出せます。
魂と命ですが、これは同じものではありません。
近いけど同じものではありません。
肉体の中にあると命といい、外にあると魂といいます。
どこにあるのか?という違いはありますが、ほぼ同じようなものです。
肉体を自分と思いたいが・・・
でも何となく魂というと宗教チックな言い方で頭に入りにくいですよね。反対に命というと急に説教くさくも感じます。
ひとつひとつ丁寧に考えていくと、魂とか命に自分自身の存在を認めているような気もしますが、どうしても肉体の世界を自分だと思いたいようですね。
ここ何年か大ヒットした映画。ゾンビ映画が多かったです。ネットフリックスとかでゾンビ作品も多かったですね。
だいたいのストーリーが、ゾンビが現れて、ゾンビに噛まれると噛まれた人もゾンビになる。
ゾンビは意志を持たず、ただ生きている人間を襲いにやってきます。
単に攻撃してもなかなか倒すことができないゾンビに対して、人間側はいろいろな策を講じてゾンビをやっつけます。
仲間や恋人がゾンビにやられてしまって、ゾンビ化してしまい主人公を襲って来るシーンもあります。
主人公はそのゾンビに思い入れがありますが、涙を呑んで、そのゾンビをやっつけるという。
ここにも肉体は自分じゃないというのが描かれているのだと思います。
そしてそれを何となくみんなが感じているから、ゾンビ映画があれだけヒットしたんでしょう。
大脳の存在
ゾンビに噛まれるとゾンビになってしまいます。
ゾンビになると自分の考えや意志はなくなり、それまでの意思とは関係なく誰かれ構わず人間を襲います。
普通の人間、生きている人間ならそんなことしませんよね?
いきなり会社に行って隣のおじさんに噛まれたら別の問題が起きてくる。いくら美人で好みの社員がいても噛もうとは思いません。思ってないからそういった行動もしません。百歩譲って思ったとしても、行動にはうつしません。
それは意志の力で制御するからですよね?制御するもしないも思わないのですけども。
大脳のはたらきで「それはやっちゃまずいだろう」って考えるんですよね。
ここが難しいというか医療現場でも議論されているところです。脳死とは死なのかどうか?という問題です。
脳死を死と認めるということは大脳が人間であるということになります。
はたして大脳は自分なのだろうか?と。
大脳は自分なのだろうか?
大脳はわれわれが生活をしていくうえで重要です。
ぼくは理学療法士としてはたらいていたときに多くの大脳を患った患者さまを観てきました。
大脳のはたらきが障害されると運動にしても生活関連動作にしても認知機能にしても、いろいろな部分でこれまでとは異なる状態になります。
だからといってダメなのかというとそんなこともないのですが、それは大脳の損傷次第でもあったりします。
大脳は自分なのだろうか?と考える前に大脳の特徴を考えましょう。
それが自分らしかったら、おそらく大脳は自分ですし、そうでなかったらおそらく大脳は自分ではない。
大脳は活動するために多くの酸素を必要とします。大脳の場合の酸素というと栄養源です。大脳は酸素がないとその機能は失われ、壊れてきます。大脳自体が存在できないのです。一酸化炭素中毒で亡くなるのはこういったことですよね。脳に酸素が行きわたらなくなり、脳が活動を停止し、身体維持機能が働かなくなり、亡くなってしまうのです。
大脳に酸素を送る方法として活躍するのが血液で、血液が新鮮な酸素を大脳に供給し続けます。脳梗塞とかで脳がやられるのも、脳に新鮮な酸素をたくさん含んだ血液が供給されなくなるからです。
大脳は酸素を大量に必要とします。酸素がないと大脳自身が維持できないからです。
身体内の酸素を100%とするなら70%程度の酸素は大脳が消費すると言われています。
身体にたくさん酸素があって、どんどんいくらでも新鮮な酸素が吸える状況ならいいでしょう。
しかし、酸素が身体内に足りない、供給量も少ない状況だとするとどうなると思いますか?
酸素を必要とする臓器や器官は他にもたくさんあります。
筋肉はもちろん肝臓や腎臓も酸素は必要です。心臓だって心筋というもので動いているわけですから酸素は要るのです。
しかし、大脳は酸素量が少なくなってくるとそのほかの器官の機能を低下させ、大脳への酸素供給を維持します。
ほかのところにはガマンさせ、自分だけが酸素を摂るのです。
これって歴史で習ったコメ騒動とかに近くないですか?百姓や小作人が自分たちは食べるものがないのにコメを作って領主や殿さまに年貢を納めていた。あれですよね。
自分だけがよかったらいい。
ほかのものはどうなったって今が楽しければいいじゃん。
これが大脳の作った世界なのです。
やっぱり自分は魂や命と思いたい
いまの人間社会をみていますと、人間は大脳なのかな、と思ってしまいますが、できたら大脳のように身勝手ではいたくない。
自分だけがよかったらいい。今さえ楽しければいい。
人間は歴史的に見てもいつまでも戦争をしていますし、略奪など奪い合いをしています。
いつの時代も○○の戦いとか○○戦争とかあるのは、いつの時代も、いつまでも人間は争ってきたんだという証明でもあります。
ほかがどうなっても、自分だけがよかったらいい。今さえ楽しければいい。
それが人間の歴史なのだとしたら、もうそろそろぼくたちは大脳の支配を逃れ、残された魂や命の世界をみる必要があるのではないでしょうか。
人間の進歩や進化は大脳の支配から脱却することだと思います。
戦争や争いをきらうのならば、それがほんとうなら、おそらくあなたは魂や命という存在なのです。
2020年 四柱推命鑑定特別企画のご案内
毎年恒例となりました四柱推命鑑定の特別企画のお知らせです
運はあるのか?運命は決まっているのか?
占いを信じる人もいれば信じない人もいます。
信じる人がいてもいいですし、信じない人がいてもいいでしょう。
信じるからよい方向に働く、信じないから悪い方向に働く、そういったものでもありません。
休日にたいせつな恋人やパートナー、家族とドライブに出かけることになりました。行き先はある程度決まっていた方がいいでしょう。
目的もないぶらり旅。それはそれでいいものですが、得るものは各人によってバラバラかもしれません。
仮にドライブの目的が「映画を観に行こう」ってなったら、映画館のある方向にクルマを走らせます。事前にお目当ての作品が何時から上映されるのかも確認します。場合によってはお目当ての作品が上映されていない映画館もあります。目的地の映画館ではお目当ての作品が上映されているのだろうか?そういったことも下調べします。映画館までの距離、それを逆算して何時ころに出発したらいいのかも考えて計画を立てます。持ち物は何が必要かな?そういったことも考えるでしょう。感動的な映画だったらハンカチは必須でしょうね。
四柱推命も同じことです。
四柱推命を「占いだ!」と信じる信じないの世界に閉じ込めておくのは、他ならぬ利用するあなたの方なのです。
行きたい目的地があるなら四柱推命を活用し、行き先までの道のりや所要時間、出かけるタイミングなどを下調べすることが正しいことは誰の立場から考えても明らかです。
本件はそういった企画となります。
ご興味がある方はぜひお申込みください。
1月のスケジュール
その他の日程は営業日です。
スケジュールに変更がある場合は随時更新いたしますので、ご確認よろしくお願い申し上げます。
相談日について
日曜日は相談日です。
現地での鑑定や年間サポート契約のクライアントさまとの面会、講座などを主に行う日としていますので、遠慮なくお問い合わせください。
相談日以外でも鑑定のご依頼は受け付けています。
整体操法は原則お受けしておりませんので、ご了承くださいませ。
ただし急患等はこの限りではありません。
営業日でも近隣への出張整体などで留守にしているタイミングもございます。
ご連絡の上、お越しくださいますようお願い申し上げます。
出張整体、出張講座、出張鑑定なども承ります。
各種鑑定、講座はオンラインでも受け付けています。
お願い
琴浦町指導室入り口に手指などを消毒できるようにしています
なにぶんこういったご時世ですので、殺菌消毒にご協力をお願い申し上げます
愛光流からだと心整体では手など皮膚に害のないタイプの次亜塩素酸水を使用しています。安心してご活用ください。
なお、こちらの商品は販売も行っています。在庫に限りがありますので早めにお求めくださいませ。
1月のからだと心のバランス講座のお知らせ
1月のからだと心のバランス講座はおやすみとさせていただきます。
ご了承ください。
お申し込み
愛光流からだと心整体では、一般的に考えられている整体という身体的な側面だけでなく、多方面から多角的に会員さまをサポートするよう心がけています。
本来ならば整体操法と言うものは、超がつくほど個人的なものです。
ひとりの人間を観てみても健康の問題だけでその人間ができているわけではありません。それゆえに多方面から観ていくひつようがあるのです。
各種サービスはそれぞれ独自のものではありますが、決して別々の、各々ぶつ切りのようなものではございません。
各種ご予約、お問い合わせです。
年間サポート契約に興味をお持ちの方は、
お電話か、下記にあります各種お問い合わせフォームよりお問い合わせください。
お問い合わせ
年間サポート契約をご希望の個人事業主さま、法人さまは、
お電話か、下記にあります各種お問い合わせフォームよりお問い合わせください。
個人さまもお受けしております。
その他、各種お問い合わせも下記フォームからお願いいたします。
手順や料金を掲載しています。
ご不明な点がございましたら、遠慮なくお問い合わせくださいますよう、お願い申し上げます。
謝辞
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