「見る」から「読む」への深化:愛光流からだと心整体の視点
受動性と能動性を兼ね合わせた身体的な視覚を重視したい。人間は意識的な存在であると同時に、身体的な存在でもある点を再認識すれば、どちらにしても見るということが一方的であってはなるまい。身体は私に属していると同時に、外界とも連なっている媒介項である。だから身体を通して見るということは、見ると同時に見られていることであり、見られていると同時に見ることなのだ。対象物や世界は私の理性の反映ではなしに、それは外界性を持った未知的なものであるという立場と言っていい。見ることはデータ化されたテクストを読むことではなく、他者との出会いによる相互作用であるということになろう。
「見る」から「読む」への移行
前回の記事でも書かせていただきました
しかし本当に第九運氣ですね~。これだけ「見る」ということに氣が集まる。
よく聞くたとえ話でありますように「赤い自動車を購入したら、街中に赤い自動車が走り出した」とか「妊娠したら、これだけ多くの妊婦さんがいらっしゃることに初めて氣がついた」とか。
第九運氣になったから「見る」という行為に氣が集まるのかもしれません。
それは私だけではなく、多くのみなさまにとりましても。
何を見るのか、どう見るのか、はその人次第ですし、一旦横に置いておいて、日々「見る」ことを実践していらっしゃるみなさまに、一助となればと思いながら書いております。
受動性と能動性を兼ね合わせた身体的な視覚
引用した文章からです。
受動性と能動性を兼ね合わせた身体的な視覚
と、いわれてもいきなり何のことだかわからないですよね~。「何のこと?」って言う感じです。
視覚と言うと目を中心にした感覚器官の名称です。目に映った対象物を視神経などを介して大脳に入力されます。そして大脳の記憶と照合され「これはにんじんである」と認識されます。
この経路的なことを身体的と呼ぶのか否か。
おそらく否に近いような氣がします。
100%否でもありませんが、100%そうだとも言い切れない。
目も単に外界の対象物を認知するだけでなく、眼球が右へ左へ移動しつつ、対象物に焦点を絞ります。対象物を積極的に認知しようとする姿勢を能動的と呼ぶのでしょうか?とはいえ、それだけではなく受動的でもあるという。
そして単に視覚、目という認識ではなく身体的な視覚ということです。
目の運動と視神経、大脳の働きという経路だけではなく、全身の身体運動としての視覚。
「見る」という行為は、このように紐解いていくと、目の領域ではなく、全身の領域であることに氣がつきます。全身全霊で対象物を「見る」。そのときに私たちは何を「見」ればよいのでしょうか。「見る」ために費やす時間があるとするならば、つまらないものを「見る」ためには使いたくはないなと思います。
身体と外界の相互作用
続いて本文では身体についての解説項になります。
身体は私でもありますが、同時に外界に溶け込んでいる、外界の一部として存在するものでもあります。私はこの辺りの文章を読みつつ「光の法則」の「第一原則」を思いだしました。
身体を通して見るということは、見ると同時に見られていることであり、見られていると同時に見ること。
このとき、私たちはどこに存在しているのだろう。まちがいなく「第一原則」でいうところの遮蔽物であり、遮蔽物を中心に考えた場合、見る立場と見られる立場が存在する。
遮蔽物を中心に考えるという行為自体がおかしいという意見ももっともなのですが、そう考えますと「見る」という行為、身体的な行為自体が、ある一方向に存在するとしか言えないのです。
ただ、外界に存在する対象物や世界は理性と呼ばれるものに存在するのではなく、外界性を持った未知なるものであり、他者との相互作用によって変化するものであるとしています。
この時に立場あくまでも遮蔽物に属してはいますが、思っているよりも極薄で透明性のある遮蔽物なのかもしません。
私たちが日々日常的に生活していくことを考えた場合、遮蔽物自体の質を変化させていくことができてもよいのではないだろうかと思うのです。そうしないと、ついいつもの通りに一方向を見てしまうからです。極端に偏るのではなく日常的な「見る」という行為から変えていくことができたらと思います。
芸術と「見る」行為
見るという行為は身体を媒介にして対象との相互関係の場の出来事を招く。作品が、出会いが可能な他者性を帯び、見るということが両義性を回復するとき、芸術の新しい地平は開かれよう。
芸術作品を楽しむことは得意分野ではないのですが、芸術に敬意を持って鑑賞できるようになりたいと思います。作品に対する理解を深めることは遮蔽物を変化させる行為になるのではないかと思うからです。
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