第九運氣と視覚の進化

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医者の見るものと私たちの見るもの

訓練をつんだ医者は、胸部X線写真を眺めただけで、そこにわずかな結核の手がかりやあるいは早期ガンを疑うに足る陰影を認めることができる。私たちが同じものを手にしても、そこにはぼんやりとした雲や霞のような白い広がりが見えるだけだ。

実は、医者がX線写真をライトにかざすとき、彼が診ているものは、胸の映像というよりはむしろ彼らの心の内にあらかじめ用意されている「理論」なのである。もし、結核であれば、左右の肺下部のくさび上先端にわずかに水の線が見えるはずであり、もしそれがガンであれば普通とは違った毛細血管の走行が現れるはずだ、彼らの目にはそのような「理論」が前もって負荷されている。

さすが第九運氣とでも言いましょうか。「見る」ということに何かしら興味がわいてきているようです。

先の文章は最近読んでいる、といいますか、読み直しているのですが、

読むべき本が終わらない|愛光流からだと心整体 隅田真人
読まなくてはいけない書籍が増えて困っている。 手元にあるのだけれど、まだ読めない書籍もあれば、読まないといけない、読むべき書籍なのにもかかわらず、手に入らないものもあります。 普段から書籍に目を通さないわけではない。 つねに書籍はカバンの中...

その中で氣になった一節を引用しました。

 

訓練をつんだ医者ということで始まっていますが、私たちも「理論」が負荷された状態で何かを見ることが多いのではないかと思います。

「理論」で負荷された状態で観察する

私が理学療法士時代。理学療法士というのはひとの動作や動きを探求するのが仕事のようなもので、ひとの動作を観察して「ここが悪い」「この部分の使い方がうまくないから動作がうまく行かない」ということを考えたものです。もちろん初学生のころは全くわかりませんでした。国家資格を取得して、医療機関に勤めていても、先輩療法士の見る目にまったく追いつかない。

理学療法士時代はそういった動作を見る目をとにかく養いました。

一般の方々もよくおっしゃいます「姿勢の崩れ」や「骨盤の開き」本当でしょうか?
「重心の位置が・・・」本当でしょうか?

これらを見るとき、確実に「理論」で負荷された状態で観察しています。
投球動作もランニング姿勢も、包丁で大根を切る動作も、椅子に座る姿も、「理論」で負荷された状態で観ています。そうすると「重心」なるものが見えてくる。「姿勢の崩れ」なるものが見えてきます。

大脳の性質として、都合のいいものだけを都合のいいように見るというものがあります。
でも実際には、大脳に都合のいい「重心」では困りますし、「大脳」に都合のいい「姿勢の崩れ」でも困るわけです。

「理論」で負荷されたものは大脳を経由しています。
「理論」は大脳に貯蔵されているからです。
しかし「理論」は普通に私たちがぼんやりと見ても見えないものを見せてくれるものでもあります。先入観に支配されなければ。

 

有能な医師がたった一枚のX線写真から結核やガンを発見するのは「これは結核に違いない」「これはガンで間違いないはずだ」というような先入観ではなく、「理論」に担保された見えないものを見ようとする力ではないかと思います。

「見る」から「読む」への移行

ちなみにX線を見ることを「読影」といいますね。
見るではなく、読むという文字を使用しているところがおもしろいなと思います。
影には「見えない」という意味があります。
整体操法者も指先で背骨を観察し、読影しているようなものです。

見るのではなく読む。
目に見えない影を読む力。
第九運氣は目の時代。目の時代ですから「見る」という行為ばかりに注目してしまいますが、「見る」の先にある「読む」という、もう一歩深い行為が求められていくような感じがしています。

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