今日はこちらで整体稽古会の日でした。
こちらは島根県松江市にあります、ボディメソッド整体院さん。
愛光流師弟会の古鐵詠一先生の整体操法指導室で、毎月一回の整体操法稽古会でした。
技を研鑽し、振り返り、共に学ぶ仲間がいることはとても心強いです。
基本的には前回の愛光流師弟会での学びを振り返るのですが、さすがに師弟会のみなさまですから、お話をしていても刺激をいただけます。
今回の話題はひょんなことから、不老不死について。
みなさんは不老不死についてどのようにお考えですか?
不老不死になりたいとお考えでしょうか?
不老不死と言いますと、真っ先に思い浮かぶのが秦の始皇帝ですね。
始皇帝は不老不死を望み、不老不死になる方法を研究していたと言われています。
そのために始皇帝のお墓から出土したと言われる数々は等身大だったそうです。
始皇帝依然にもよみがえりや死後の世界という概念はあったようですが、不老不死を望み、死後もこの世で生きることを望んだのが始皇帝が最初であると言われているようです。
孔子は死んだらどうなるか?と尋ねられた時に「死んだことがないから、死後のことはわからない」と答えたそうです。
このことから孔子の時代、もしくはそれ以前の中国では死というものがひとつの通過点であると考える死生観を持っていたと考えられます。
そう考えると、始皇帝は死は通過儀礼であるという死生観を持っていなかった人物とも言えます。
さて、私たちはいかがでしょう?
死をひとつの通過儀礼と考えているでしょうか?
それとも死がすべてを無に帰すと考えているでしょうか?
私たち現代人の感覚はおそらく始皇帝に近い。
そして科学の進歩で、年をとることを嫌悪し拒否することでしょう。
現代の風潮からも垣間見える部分はあると思います。
日本はどちらかというと茶道精神からなるわびさびという美意識があります。
おそらく今後、わびさびという美意識は廃れていき、そして骨董品的価値を持つものとなるでしょう。枯れていく、老いていくという価値観は置いていかれ、忘れ去られていく。
いまからできるであろう姥捨て山のようなところに、ソッと移動させられる。
花はつぼみのうちに飾れ、と言われます。
それはつぼみから開花するときの勢いを切り取っているからです。
開花して満開の花は、これから散っていくだけです。
これから咲きほころうとする花の勢いを感じることが大切です。
お墓に行った時のこと。
ふと他のお墓に目をやりますと、造花が添えられていました。
たしかに供えた花が枯れると誰かが花を処分しないといけませんし、処分するのが遅れたら異臭を放つかもしれません。
造花が供えてあったことに対してどうこういうつもりは毛頭ありませんが、手向けた花にさえ、時間の経過を許容しないのが現代の風潮なのだなと思いました。
さて、老いることも枯れることも否定された現代において、生の勢いというものを本当に感じ味わえるものといえるのでしょうか。
AIやロボットが身近になった時に、人間が人間だと証明できることが老いることだけだとしたら、悲しいことのように思います。
終わることのない議題で、とりとめのない話をしながら、お稽古をしました。
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