五感の拡張こそがラグジュアリーという一文を目にしました
ラグジュアリーといわれているものと五感感覚は切り離せないものだとは思っています
五感とラグジュアリーって相関関係にある
五感が満たされる度合いが多いと人間は満足するでしょうし、その極みがラグジュアリーだと考えた場合、五感感覚を通じてラグジュアリーを感じることは間違いないように思います
五感を一体どうするかという問題は残りそうだけれど
ただ、五感の拡張こそがラグジュアリーという一文には同意しかねる
五感の拡張こそがラグジュアリー
というと如何にもわかったようなわからないような、人を煙に巻いたようなコピーである
拡張という言葉を調べてみますと、
[名](スル)範囲や勢力・規模などを広げて大きくすること。「道路を—する」「軍備—」
と、ありました
そうすると、めっちゃ見えるとかめっちゃ聴こえるというのがラグジュアリーなのかという単なる疑問が現れる
ラグジュアリーというのは五感で感じるからこそ、ラグジュアリーなのだろう
その五感をただ単に拡張したからラグジュアリーなのだという考えは浅はか過ぎないだろうか
ただただめちゃくちゃ見えた先にラグジュアリーがあるとは思えない
ただただめちゃくちゃ聴こえた先にラグジュアリーがあるとも思えない
今の多くの人たちが五感感覚が退化しているから、それを拡張しようというのなら、わからないでもない
でも退化しているから拡張しようぜっていうのでは、マイクとかイヤホンと変わりがないように能力として拡張するだけなら、アマゾンの奥地に住んでいる人はみんながみんなラグジュアリーなのかということにもなりかねない
五感感覚で何を感じ、どう捉え、集約していくのかが、ラグジュアリーと呼ばれるものに近づく方法なのではないのかなと思っています
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