人間生きていますと不安になることもあるかと思います。
その不安というものがどこからやってくるのか。わかれば対処のしようがあるというものですが、案外わからないものでもあります。
ある出来事があったとします。
友人やパートナーに傷つくことを言われた。仕事でミスをしてしまった。
他にもいろいろなことがあります。
その出来事があったから不安なのです。
不安だけではなくそういったときには恐怖をつれてきます。
「どうしようどうしよう」って思っている感情は恐怖心を連れてきます。
こういったときに思うのは「本当にその出来事が原因で怖いのだろうか?」です。
みなさんも一度考えてみて下さい。
何となく不安なときがある。何となく心配なときがある。
そんなことありますよ、人間ですからね。
でも「本当にその出来事が原因で不安なのだろうか?」
わたしたちにはさまざまな感情があります。個人的に好ましい感情もあれば、できれば出会いたくない感情もあります。どちらかというと不安とか恐怖というようなネガティブな感情には出会いたくない。楽しいとか嬉しいとか喜びという感情に出会いたい。
でも楽しいとか嬉しいとか喜びという感情を引き起こしてくれる出来事があればいいけど、残念ながら出会う機会は少なくて、無理やりにでも笑顔を作ってみたりします。
そしてそれは「自分の精神が弱いのだ」と。「自分の性格が悪いのだ」と。
秋になりますと、そういった感情を持つ人が増えます。夏から秋に季節が変わるとそういった人が増えてきます。
そう考えますと秋になったから不安や恐怖を感じているのではないでしょうか。
東洋の考え方では不安や恐怖という感情を司るのは腎臓だと言われています。
腎臓が疲れたり、腎臓に異常があるとそういった感情に支配される。腎臓が疲れると不安や恐怖と言った感情になるのです。
では「不安や恐怖に支配されるわたし」の原因は「精神が弱い」からなのでしょうか?それとも「性格が悪い」からなのでしょうか?
「精神が弱いから」でも「性格が悪いから」でもありません。
不安や恐怖を引き起こすような出来事があったのかもしれませんが、それ以前に腎臓が疲れている。腎臓の手当てをすることで目の前にある出来事は消えなくても、不安や恐怖の大きさや重さは変わる。不安や恐怖を過剰なまでに感じていると立ち向かうこともできません。でも少々の不安なら、この程度の恐怖なら、冷静に対処することもできます。
整えるべきは精神や性格ではなく腎臓です。
わたしたちは日々日々何かにおびえて暮らしているように思います。何かに追われて暮らしているように思います。しかし本来はおびえるために生まれてきたわけではないと思います。身体中でこの世の生を楽しむために生まれてきたように思うのです。
でもどうしてそれは身近にあるものではないのだろう?
身体は動くためのものだけでなく感じるためのものでもあります。
腎臓の異常は不安や恐怖を発する。腎臓の手当てをすることはこの世の生を楽しむためのものだと思います。腎臓の手当てとして代表的なものが足の裏をほぐす、です。青竹ふみなどをして足の裏を刺激することで不安が小さくなり、恐れる気持ちから解放され、明日から本格的に生を楽しんでみて下さい。
整体とは身体を整えることで姿勢がよくなったり、身体の痛みが消えるという認識の方が多いかもしれませんが、整体とは人間がより快適に生きる方法なのだと思います。
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