スマートフォンを開けば、そこには誰かを批判し、糾弾する声が溢れています。SNSの画面には「これは許されない」「絶対に間違っている」といった断定的な言葉が並び、見知らぬ誰かに対する怒りと正義感が渦巻いています。私たちは気づけば、正義の代弁者として他者を裁く側に回り、その行為に一種の充実感さえ覚えるようになりました。
しかし、この現象を深く見つめてみると、そこには私たちの霊的な理解の浅さが映し出されている。表面的な善悪判断に囚われ、真理から遠ざかってしまった結果が、この不寛容で息苦しい社会を生み出しているように思います。
二元対立の癖
私たちは物事を善か悪か、美しいか醜いかという二分法で捉えがちです。この二元的思考は、一見分かりやすく、判断を下しやすいという利点があります。しかし、この思考パターンこそが、現代社会の不寛容さを生み出す根源となっているのです。
SNSでの炎上現象を例にすると、ある発言や行動が「悪」と判定されると、瞬く間に「正義」を掲げる人々が集まります。彼らは自分たちを善の側に置き、炎上の対象となった人物を悪の側に配置します。正義を維持するためには「悪」が必要だということです。
悪を作り、悪を探す社会
この構造下においては、正義だけが存在することはできません。なぜなら、「自分が正義である」ことを証明するためには、隣に「悪人」が存在していなければならないからです。善人でいるためには、誰かに悪人でいてもらう必要があります。
この心理メカニズムは、「許せない」という感情を維持するために「許されざる者」を常に必要とする構造を生み出します。私たちは無意識のうちに悪を探し、時には悪を作り出してしまうのです。メディアやSNSが日々新しい「悪役」を提供し続けるのも、この需要に応えているといえます。
「横の陰陽」の構造
これは陰と陽を横に並べる、並列においていると考えることができます。善と悪を同じ次元に並べて置く考え方です。この構造では、必ず相手は悪人である必要があり、自分の正義を保つために他者を悪に仕立て上げなければなりません。
しかし、この「横の陰陽」には根本的な問題があります。それは、完全な絶対善ではないということです。真の絶対善は悪を隣に必要としません。絶対的なものであり、相対的なものではないということです。相対的なものに過ぎない善というものは移ろいやすく、いつまでも安定しないのです。
「縦の陰陽」という視点
ここで重要になるのが「縦の陰陽」という概念です。これは光の世界と闇の世界を垂直的に捉える視点です。横に善悪を並べるのではなく、より高次な光の世界から、この物質世界の陰の部分をも包含して見る視座です。
縦の陰陽において、闇や悪は光に対立するものではありません。むしろ、より高い次元の光によって照らされ、統合されるべき要素として存在しています。
霊的知識の不十分さが生んだもの
現代社会の不寛容さの根本原因は、この霊的知識の不十分さにあります。私たちは物質的な現象世界の表面的な善悪にとらわれ、霊的真理を見失っています。
真の霊的知識とは、表面的な行為や言動は影の存在に過ぎず、その事には力がないことを理解することです。私たちは他者を裁く必要がなくなります。
寛容な社会へ
不寛容で生きにくい世界から抜け出すためには、まず自分自身の内なる霊的知識を深めることが必要です。それは、自分の中にある「正義でありたい」「善人でありたい」という欲求を見つめ直すことから始まります。
その欲求が他者を悪人にすることで満たされるものであるなら、それは真の善ではありません。真の善とは、他者の存在によって左右されないものです。
まとめ
霊的知識の不十分さが、現代の不寛容で生きにくい世界構造を生み出しています。横の陰陽から縦の陰陽へと視点を転換することで、私たちはより寛容で慈愛に満ちた社会を築くことができるでしょう。
それは、常に「どっちですか?」と考えることをやめ、眉間の奥にある光を見つめる目を養うことから始まります。真の平和は、外なる悪との戦いによってではなく、内なる光の拡大によってもたらされます。


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