「わたしは何々である」

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突然ですが、読書の時間をみなさんはお持ちですか?
余りにお忙しいので、そのような時間はないのかもしれませんね。
たしかに読書というのは体力もいりますし、集中力も必要です。せっかく読書を始めたときに限って、電話が鳴ったり、LINEが鳴ったりします。そういった意味では読書には運も必要なのかもしれません。

若い人が読書にかける時間というのは年々減ってきているようです。私も子どもの頃は読書する暇があればファミコンしていたように思います。読書と言ってもマンガでしたし、文庫本に手を出し始めたのも小学校の6年生くらいからだと思います。

その分、どういうわけか大人になっても読書をしないといけないようになっています。新しい発見なども見つかるので楽しいのは楽しいですけど。

 

さて、今日は最近読み直している本の中から一節。

私たちは「○○という人間である」と無意識的に思い込んでいます。私というものを誰かに紹介するときに、職業だったり、住んでいるところだったり、趣味だったり、所属しているものの名前だったり、さまざまな敬称をつけて紹介します。

相手もそれを望んでいますから、相手の知りたい情報を与えたうえで自分を定義するのは、日常会話を成立させるうえでとても重要なことです。私も愛光流からだと心整体、愛光流認可指導室、愛光流師弟会などという敬称を使用しています。整体をしています、というのも含まれます。

しかし、それはあくまで外向きな自分であり、敬称が付いている自分が本当の自分なのかというと、どうなのだろうというところです。

人の心の中に或る中心となっている考えがあって、その考えの色々な働きを意識の中で統一するようになると、ここで始めて「わたしは何々である」と称しはじめる。この事はその中心観念の機能を自分の中に集中し、自分をこの機能の中心にする事あります。

「わたしは何々である」の前に中心となる考えが存在します。なんとなくパラパラと雑然としたものが、徐々に集まってきて、あるひとつのものになります。それを称して「わたしは何々である」と意識し始めます。

パラパラと雑然としたものがある。誰かのある言葉やきっかけとなる出来事、経験、自分自身の思い込みがパラパラと雑然としたものに方向付けをし、集まってきます。
それは「わたしは何々である」という、ある種の観念として、中心に鎮座する。

方向づけるものは単なる暗示のようなものでした。
誰かが不意に言った言葉かもしれません。
それは善意や悪意がある場合もあれば、善意も悪意もない場合もあります。
ともかく暗示めいたものが、いつの間にか観念に変わる。

それは中心に長い間居座ることになるのです。「わたしは何々である」と。

 

私が今回この一節が氣にかかったのは、自分探し。
私って一体何?っていうことは、多くの人が知りたいことなのではないだろうかと思ったからです。

誰もが自分のことってわかっているようでわかっていない。他人から「あなたって○○よね」って言われて、「そうだな」って思ってみたり「そうじゃないのにな」って思ってみたりします。どちらにしても、他人から見た自分だけではない、自分だけの可能性というものを信じていたいからではないかと思います。

たしかに自分の可能性を自分が信じないと誰も自分のことなんて信じてはくれません。誰にも信じられなくなっても自分だけは自分ことを信じてあげたい。その気持ちはよくわかります。

だから自分が知りたい。自分探しの旅をするのです。

多くの人がこのように考えるのには訳があり、それは多くの人が今の自分に満足していないからではないからでないでしょうか。多くの人が今の自分に不満を持っていて、そうではない自分がどこかにいるのではなかと探している。これが自分探しの力源なのではないかと思います。

そしてそれに対する決定打はまだ見つかっていない。

暗示。
「わたしは何々である」と信じ込もう、思い込もうとしても潜在能力は現れてこない。
「わたしはお金持ちである」「わたしは成功することができる」と信じこもうとしても、それを実現するだけの力は現れてもないのだ。

ということは「わたしは○○である」自体を変えないといけないのではないかと思うのです。

 

「わたしは○○である」と一旦決めてしまうとそれまでは只自分自身の潜在能力の中に閑居していた心が活動するようになる。われわれが「わたしは・・・である」と想念を集中した瞬間に心は活発に働き出す。その集中された点は中心となってそこから現象し人間のあり方すべてを統御し、決定する権威ある命令が発せられるのであります。
従って「わたしは・・・である」という表現は人間の本当の相(すがた)、彼の真実の在り方、彼の本来完全円満なる相、実相を示すために用いられるべきであって、表面のいかにも自分らしく現れている相(すがた。現象我、偽我)を示すために用いられるべきものではないのです。

なんともまぁ読みにくい文章ですね~。

ただ、きちんと伝えようとするとこうなっちゃうのもわかります。
わかりやすい文章だなと思いました。

「わたしは・・・である」というのは、わたしは目に見えない存在、わたしは光である、という前提条件に立つ。それがないとわからないです。

わたしはたったひとつの命であり、永遠不滅の光である。それが本当の相(すがた)なのである、という前提条件に立ち、それ以外の表面に現れているものは偽りであり、本当の私を現わすものではない。

なので「わたしは・・・である」というのは本当の相(すがた)を表現する以外に用いてもうまくいかないものなのだ。

 

いくら暗示にかけても意味がないのも納得です。だってそこにはないのですから。ないものを表現しようとしてもうまくいかない。もちろん探しても見つからないのです。

 

暗示、暗示。
アンジーっていったら映画で活躍した女優のアンジェリーナジョリーさんですね。最近はお元気なのでしょうか?乳がんの治療のことでは話題になりました。もう何年も前のことです。

アンジェリーナジョリーさんといったら、その唇がとても特徴的です。とても肉付きがよくてふくよかな唇です。人相の観点からしますと、味覚がとても鋭敏だそうです。セレブさんですからとても美味しいものをたくさん召し上がったのでしょう。美味しいものは少しだけ、ですかね。

置いておきます。
味覚は五感の一種であり、感覚を現わします。味覚が鋭敏な人はもともとの素質的なものもあるのでしょうが、やはり味わう時に如何に集中しているか?ということも関係します。食卓でテレビを見ていて、阪神タイガースを観ていて、9回裏2アウト満塁で代打の神様が出てきたときなんか、味覚も何もあったものではない。何を食べていても飲んでいてもわかりっこないです。
如何に味わうことに集中していかも大事なことです。

師匠から教えていただいたことですが、集中しようとすると、多くの人が眉間にしわを寄せる。しかしこれは集中しているのではなくて、気張っているだけ。いくら気張っても仕方ない。集中しないといけない、と。

集中するとは、内側に集めるという意味です。
暗示とは暗いということです。
内側が暗い。暗いということはそこには光があることの証明でもあります。暗闇はそれ自体で存在しません。光を遮ることでのみ暗闇は存在するのでしたよね。

暗示から始まろうがどうしようが、はやり「わたしは光である」でした。

 

「わたしは・・・である」の使い方をお話させていただきました。
ありがとうございました。

 

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