わかつ、わかち合う

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明想の話です。

明想をするには霊的な知識が必要です。霊的な知識を得て、霊的な実践を積み重ねることが大切です。

光と影の関係性を知ることがとても大切です。

 

光と言われてもピンとこない人もおられるかもしれません。

影と言われてもピンとこない人もおられるかもしれません。

 

光と影の特徴を知ることで少しずつ「なるほどこれ影か・・・」「これが光か・・・」という風になってこられるとよいのではないかと思います。

影の特徴はわかつ、わかち合うです。

ん?
って感じがしませんか?

しないんですね。
そうですか。
それはあなたがマスタークラスでいらっしゃるからでしょう。でもそうではない方もいらっしゃいますから、ん?っていう感じがするというところから始めさせてください。

わかつ、わかち合うっていうと、何となくいい言葉、美しい言葉という風に捉えていませんか?私もそうでした。

そして光と影でいうと、光がよくて、影はう~んという感じ。
(もともとこの考え方自体がおかしな話なのですが、それは置いておきますね)

わかつ、わかち合う。「誰かとわかち合うんだ!おーっ!」みたいな。いい例題が浮かばなくて、すいません。汗と青春と熱血と。そういった感動的な美しいシーンに、わかつ、わかち合うというものは存在しているように思うのです。

苦しみをわかち合おうとか。
本当に判るのか?という話ですが、わかち合おうという精神が大事だ、そう思っていました。

誰かとわかち合い、他人と繋がり、助け合っていくことが良いことではないのか?それが協力し合った力となり、大きな力となるのではないのだろうか?

スポーツの世界、部活動の世界ではそのように教えられてきました。仲間と協力することで、自分ひとりの力では到底成しえないようなことでも、成し遂げることができる。より強力な相手にも打ち勝つほどの大きな力を出すことができる、と。

そう思っていました。

 

しかしわかつ、わかち合うというのは分離と分断の世界。つまりは影の世界です。影の特徴は失われていく、無くなっていく、という法則があります。

失われていき、無くなっていくという宿命の中にあるわかつ、わかち合うの気持ちからすると、とても美化でもしないとやってられない。

部活動の世界に似ていると思いませんか。私はわかつ、わかち合うのイメージは部活動と震災などの災害です。

あるものをわかつ、わかち合うということが分量的にも質量的にも引き算や割り算の世界。
何かと何かの間に遮りがあり、分け隔たれています。これは有限の世界。有限ということは無限ではなく、数限りがある影の世界です。

 

 

わかつ、わかつと打ち込んでいると、まちがえて「勝つわ」って打ち込んでしまいました。勝つわっていうのも競争相手がいて、競争相手と勝ち負けを分ける。やはりわかつも「勝つわ」も分離と分断の中にいる。

わかつ、わかち合う。これはある方向からある方向への移動を示しています。何をどうわかうにしても、そこには足りないという前提条件があります。足りないからわかつ、わかち合おうとするのです。

足りない、乏しい方向に対して移動する。それが善とされています。

 

ということは、この善という捉え方を変えた方がいいのではないか。どんどんわかち合うたびに、減少していく、足りなくなっていく、乏しくなっていくことを善とすること。
でも善だから、やらなくてはいけない。
その方が優しいから。

優しい?
わかつ、わかち合う優しさの中には、ある種の隔たりがある。誰かと誰かを分けているという前提がある。誰かと誰かを分けているという前提がなければ、わかつとか、わかち合うとか、優しいという言葉もなかったのではなだろうか。

光と影。
部活動や災害時の例にもありますが、これまで私たちは影を観ることをたくさん学んできました。影を観ることが得意なようです。影にしても光にしても、私たちが意識することが栄養のようです。影を意識して、わかつ、わかち合うをしていると、また影が育ちます。

わかつ、わかち合う、というような美しい言葉にも影の足跡がついています。そのひとつひとつを考え、検証していくためにも、霊的な知識というものが必要なのです。

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