たった一杯のコーヒーですが、焙煎し、豆を挽き、ドリップして飲む。
なかなか時間がかかりますが、そうしてでも美味しく一杯飲みたい。
みなさんもこの時間を大切にしていただきたいと思います。
以下は動画中のテロップの言葉です。
「氣」は見えません
触れません
ただ感じるだけです
五官で感じるわけではありません
山の中でも水があれば水の氣を感じます
街の盛り場などの空は人の氣が上がっております
三十年ほど前の話ですが
お酉様の日 空の明るくなるほど氣の上がっている方向へ歩いてゆきましたら
道の見当はつかなかったが 神社の前に着きました
闇の中でも人の気配は感じます
何か悪いことをした人は そういう雰囲気を背負っております
それが他人に何となくソワソワしている印象を与えるのでしょう
見合いをした人がおりました
平素を同じ感じです
決まらなかったそうです
同じ日
また見合いをした人に会いました
活き活きと何となく華やかそうな感じで 平素のその人ではありません
あとで婚約したそうです
会った人は皆 華やかだとか色気が出ていたとか 同じような印象を語りました
氣は誰にも感じます
しかし五官で感じたのではないので 誰も確定的なことはいえません
なんとなく氣になったとか あとでフッと氣づいたとか そんな氣がしたとかいうだけです
氣とはそういうもので 見え 触れ 味わい得るものではありません
氣が張っていると 苦しいことも痛いことも感じません
氣が凝ると そのことにしか心が働きません
将棋を指したあとなどは 他人の顔が将棋の駒のように見えて「金」のような顔だとか 「香」のように細いとか そう見えます
氣が散ると思い出しても断片的だし 憶えても断片的で アーク燈の光で見た絵のように頭の中は集注しません 焦って頭を整えようとしてもバラバラになります
氣が沈むと自分のことしか考えられず なんでも陰氣に感じ 笑い声まで空々しく感じます
強氣な時は何でも活氣に映ります
「氣は心」といいますが 心そのものではありません
ただ氣の動くように心が動くだけです
心だけではありません
体も氣の行く方に動きます
尿に氣が行くと 急に尿をしたくなります 空腹だと氣づくと たちまち空腹が心を占領します 胃袋も働き出します 何かで眠氣がとれると 噓のように醒めてしまいます
~中略~
読む氣になって読んでいる漫画をとり上げて 読む氣のない勉強の本を読ませるので 子供は疲れてしまうのです
読む氣を起こさせれば難しい勉強の本でも 漫画を見るように読みます
残業して居眠り半分の人でも 麻雀に誘われると徹夜をします
寒いからお使いは嫌だとベソをかいている子供でも 雪合戦なら寒風の中でも平気です
子供は勝手だと嘆くお母様は 氣ということが判らないのです
だからいつも氣の無い返事をする そして「ハイ といったじゃないの」などと後でいっていますが 人間同士では言葉より氣の方が心から心へ直通するのです
氣というものはそういうものです
元氣とか活氣とか 氣おくれとか 氣が適うとか適わぬとか 氣を入れるとか氣が無いとか 天氣 氣配 氣遣い 氣取りから 氣が乱れる等々 いろいろと氣という言葉は使われておりますが さて 氣とは何ぞやとなると戸惑ってしまいます
それほど身近で氣づかないまま使っているのです
西洋には氣という言葉がありません ミトゲン線とかアルファー線とかいっても それは物質の細かくなって放散する形であって 氣ではありません
オーロラにしても 水蒸気にしても 氣の現われであって 氣そのものではありません
氣は物質以前の存在です
欅の大樹も始めは一粒の種子でした
その種子の中にあった氣が必要とする物質を集めて ああいう大きな樹となったのです
ある子が桜の枝を折って花を探しておりましたが 見つからない
しまいには爺やを呼んで根まで掘って探しましたが 花は無かったと不平をいっておりました
これを笑う人がおりますが
人間の体を解剖して生命を見つけているようなもので 笑えないことです
お母様は始末が悪いと困っておりましたが 物をいくら分解しても生命は見つかりません
氣も同じです
人間の体も氣が造ってきたのです
要求によって生まれた氣が 必要とするものを集め産み出したのです
氣は精子以前の存在 物質以前の動きなのです
だから見えない 触れない ただ感じる それも五官ではない 氣で感じるだけなのです
氣の動きは勢いなのです 勢いは人のいのちです
~野口晴哉 整体入門 より~
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