【エッセイ】明確なる今がないと結局横に置くしかなくなるという話
あるnoteを読んで
noteにはわたし個人的も書いていますけど、他の方の記事を読んだりもします。
こちらの方のnoteから。
この記事は有料記事ですので全部読み切ることはできないです。
植物や修理系、日記や子育てなど、生活全般を修行だと拡大解釈して修行します。
生活を端折ると精神が鍛錬されなくなるなというのは感じていて、肉体を鍛えるために筋トレするなら精神を鍛えるために生活をせよ。
という部分に共感できるところ多々あり。
著者の言うパリピと思想家について簡単に
パリピというとパーティーピーポーの略です。
ピーポーではなく、ピープルですね。すいません。
なったことも見かけたこともない、ある意味で想像上の人物。ハリウッド映画に登場するキャラクターです。
このパリピというのは著者である平田さんの一種の表現のようなもの。キャラクターを定義するべく使用されている単語です。
それと対抗しておかれているのが思想家というキャラクター。
著者は記事で何もパリピと思想家が争っているという内容ではなくて、パリピ的な人と思想家的な人という分類分けをして、記事を進めておられます。
パリピと思想家を簡単に要約すると
パリピ:今を楽しんでいる、今に価値を置いている、明るい、その後の振り返りやその行為に対するなぜ?を突き止めない
思想家:楽しいとか「これ美味しい!」の裏側を探ろうとする、何ごとも深く考察しようとする習性がある、起こった事象すべてに意味があると思っている
インフルエンサーとかSNSでバズるのはパリピ。
ゆっくりじっくり、下手すると本人が死んだ後でも伝わっていくのは思想家。
スティーブジョブズとか亡くなってからもその後の人たちや時代に対しての長期的な影響力があります。
スティーブジョブズのここの一面だけでいうと思想家っぽい。
でもiPhoneを発表したり一時的にすばやく有名になった側面もあります。
著者自身は思想家だと自己分析されていて、起業家とか有名な社長さんと話をしてもよく理解できなかったそうです。「楽しいと思う方をやってきたら成功した」と言われても何のことかさっぱりわからなかったようです。参考にならなかった、参考にできなかったんですね。
「まだ信頼されていないから大事なことは話してもらえないんだ」と落ち込んでおられたそうです。でもいつまで経っても、どれだけ仲良くなっても「楽しいことをやればいい」という回答から進展することはなかった。
パリピの持っている明るいという要素。一見すると「楽しければいいじゃん」という軽薄な部分。それに裏側があると踏んでいたのが、なかった。
なので、どちらがどうというわけではなくてどちらの要素も必要であり、パリピ的な要素と思想家的な要素を持つ人が出てくるんじゃないかということで、トランプさんとイーロンマスクをあげておられました。
イーロンマスクって日本ではあまりなじみがないけど、テスラって言っても乗ったこともないし、購入する選択肢に入ったこともありません。国道を走っているとテスラのディーラーを見かけたということもありませんし、ガリバーにテスラ車が並んでいるのも見たことがない。宇宙開発とかをもう何年も前から多額の投資をして進めているなんてパリピ的な要素がないとできないんじゃないかとも思います。著者もパリピとか思想家というのは単なる分類分けに過ぎなくて、どちらも兼ね備えているのが今風といえるのではないかと。
横の陰陽を話しているのです
パリピであれ、思想家であれ、そこに対比的発想がある以上は横の陰と陽を語っているという前提条件に発つ。
仮に今というものしか現実がないとした場合、パリピの言う今は今ではありません。ということは外を見る時点で今はないのです。その距離感とか時間的な速度の違いがあるだけ。パリピの今という座標軸は距離が短くて、思想家の今は遠い。短期だ長期だというだけなので本来はあまり違いがなく、意味もない。この座標軸は今というかけがえのない基準があるから、短いとか遠いとか言うわけであって、明確なる今が存在しないと結局いいとか悪いとかの話にしかならないのだと思います。
思慮深い方がいい。なぜならその方が頭がよく見えるから。
漫才師の銀シャリのネタで「頭がかしこく見られたいからことわざを覚えているねん。ことわざが言えるで」というのがあった。
そもそも頭がかしこく見られたいという時点でどうなんだというツッコミが入る。
パリピと思想家。
どちらかといえばパリピ<思想家でかしこく見える。
ただ、優秀な経営者や革新的な時代の寵児と言われるリーダーなどはパリピ的な人も多い。楽しさを追求して、楽しい方・好きな方を選んで、そればっかりやっていたら成功したというパターンの人。そうなると何を考えているかわからない思想家よりもパリピの方がかしこく見えるのかもしれない。
かしこいではなくかしこく見えるというのがポイントで、人からどう見られるかが重要で、ほんとうの所はどうでもいい。銀シャリのネタの中でもかしこく見られたいという段階で実際にはどうなのかを諦めているし、「実際にはかしこくないねんや」っていうのを暗に言っていて、お客もわかっているのがおもしろい。
思慮深いというのも相手にどうみられるかわからない。思慮深く、控えめでいると積極性がないとか、単に暗い奴だと思われてしまうでしょう。
ただ何も考えずにボーっとしているだけで深く考えていると思われることもあるでしょう。
何かをして(ことわざを言ってみて)かしこく見られるというより、もうその前の段階でおそらく勝負はついている。そしてそれを相手はあまり覆さない。
テストや試験もいいけど勝負せずに勝つということをもっと強調してもよいのではないかと思います。特にこれからの子どもたちには。
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