最近読んでいる本から一節を紹介するシリーズ。
シリーズなのでしょうか(;^_^A
本物の自分とニセモノの自分とを区別せよ
意識とは人間が何かに気付いている状態を云います。それは心を知る能力であり、この知る能力があらゆる面における人の能力を決定します。人間は真実であるものに気付くこともあれば、実在らしくはあるがその実全くの偽物であるものの方への意識感覚を発達させることもあります。
意識っていいますよね。宇宙意識とかもそうですし、「意識して行こう!」とかって掛け声もあります。
意識って何だろうって思いますよね。意識を説明できる人ってなかなかいないんじゃないのかなって思います。
意識とは人間が何かに気付いている状態のことであり、知る能力のことを言うようです。
何かに気付いている状態・・・とか「私は人間である」とか「私は何の何某である」というようなことでも「私は○○会社に勤めている」でもなければ「私は○○ちゃんのお母さん」というものでもありません。
人間は真実であるものに気付くことであり、真実であるものあると知る能力のことを意識といい、意識状態というのです。
真実の意識状態があり、偽物の意識状態があります。
私たちは真実であるもの、真実であることに気付き、真実であると知っている必要があります。
一見すると、もしかしたらこれまでの知識や記憶や経験から、真実ではない偽物があたかも真実であるかのように存在を誇示するかもしれません。
偽物の方に意識感覚を発達させることなく、真実であることに気が付き、真実であると知るには真実である自分に気が付いている必要があります。
私たちが自分の意識を神意識にまで拡大すると、自分自身を始めすべてのものが最高の状態にあることがわかります。
~中略~
これまで抱いていた俗な形而下の観念は完全に破棄されて真の霊的なるもの(完全なる実相)に取って代わられるのであります。
と云っても、この霊的意識(実相覚)は感覚の活動を排除するものではありません。本当の感覚のはたらきはつねに最高の意識の中にこそ含まれているのです。いわゆる五官は、正しい指揮の下に置かれていないときは、そのはたらきが限定されてしまいます。
神意識などと言われると謙虚な私が頭を持ち上げてくるのですが、神意識までの拡大がすべてものが最高の状態にあることがわかるということは、(私を含めた)周辺にあるものを不完全だと謙遜する私は、すべてものが最高の状態であることを見損なっているという事とも言い換えられることであり、すべてのものが最高の状態であることを知らないことが謙虚であり、謙遜することの根源にあるのではないかと思うのです。
そのように考えると、謙虚や謙遜は美徳でもなんでもなく、単なる怠惰な発想のように思えてしまいます。
その理由としては、これまでの俗な形而下の観念に取り付かれているからとも言え、真実である実相に気が付く必要があるのです。かといって「そうそう私が神よ」と言われても、その人の意識がどの状態にあるかによって非真実であり、偽物であると言えます。
謙虚や謙遜は日本の美徳であるとされますが、日本語のおもしろさというのは五官に関しての表現に現われます。たとえば「優しくて綺麗」という表現があります。日本人の私たちには「優しくて綺麗」というだけでイメージが付き来ます。
本来ならば並列に並ばないはずの「優しい」と「綺麗」が並び、イメージとして再現されます。「優しくて綺麗」な女性もいれば「優しくて綺麗」なお料理もあります。「優しくて綺麗」な音もあれば、「優しくて綺麗」な絵画もあります。
五官の統一というと何か小難しい気もしますが、「優しくて綺麗」や「甘くて柔らかい」のように五官を丁寧に味わうことも意識状態の拡大、神意識への到達に必要なことではないかと思います。
これまで私たちはいろいろな虚構に支配されてきていて、ほぼ自動的に虚構にエネルギーを注ぐようにプログラムされてきたように思います。それはそれでよいのかもしれませんが、真実に気が付いている意識状態を求めるのであれば、虚構の仕組みを知ること、五官との関わりも大切なことだと思います。
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