事実を丁寧に観察する

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はじめに

事実を丁寧に観察する

これは整体を始められた野口晴哉先生の書の中の一節です。

ほんの序段。文章の始まりの部分でもあります、この一節に心奪われました。

事実を丁寧に観察する

この単純な一節ですが、はたして私たちは身に着けている、習得していると言えるのでしょうか。

事実は事実として存在します。しかし人間というのはおもしろいもので事実をありのままに観ることがなかなか難しいようです。

同じ景色を見ても10人いれば10人違う感想を述べます。同じ時間に同じ場所に居た10人。偶然だろうと友人同士だろうとどっちでもいいです。

それでも10人いたら10通りの景色を話しているようです。まるで全員が全員違う場所に行ってきたかのように話す。

たまたま表現が違うだけなのだろうか?と思いますが、そうではない。ある人はある景色を観て、別のある人はその景色を観てはいないのです。

そうかといって同じ場所に行っているのですから、同じ景色を観ているのです。しかし観ていない。そういうことは景色だけに非ず、よくあることなのです。

 

脳の構造

どうして同じ場所に同時期にいた人が同じ景色を観ないのでしょう?それは脳の構造にも原因があります。

脳は構造上、大量の酸素を消費します。脳って優れていますが、めちゃくちゃコスパはよくないです。脳の働きを考えたら、それでも省エネなのかもしれませんが、身体としては体内にある酸素の大部分を脳の活動に消費しています。

「脳よ、もうちょっと省エネできませんか?」

「脳よ、もうちょっと経費削減できませんか?」

って言われ続けています。

 

しかし、脳の活動が低下すると大変なことですから、脳は脳で酸素が欲しいのです。

ここら辺の脳の傍若無人ぶりはなかなかのものですが、それは置いておきます。

 

脳はそれだけ大量に酸素、エネルギーを消費します。

ですので、できたら脳はあまり働きたくない。いざという時の為に活動を制限していると言ってもいいのかもしれません。

脳が1から10まで活動するとコスパが悪いので、脳は働きをスキップします。1,5,8,10という具合にスキップします。できたら1,10で終わりたい。これが経験や技術の習得などでできることがスムースになる要因でもありますが、脳の中で起きていることは省エネ対策のためのスキップです。

私たち人間にとってこれは「思い込み」や「早とちり」という現象として現れます。

「思い込み」も「早とちり」もいい意味の言葉ではありません。ミスや失敗のときに使う言葉。「決めつけ」もあるかもしれません。

しかしこれは脳の構造上、システム上「思い込み」「早とちり」「決めつけ」は起きてしまうのです。

事実を事実として捉えることの難しさ

脳のシステムからどうやら私たちはいつも通りの何気ない自分では

事実を丁寧に観察する

ことは難しいようです。

 

私たちが「事実を事実として観る」ためには、これまで培ってきた過去の経験則というスキップモードを解除しないといけなくなります。

さらに1,8,10としてきた思考手順を変更し1,2,3,・・・・10と順序立てていかなくてはなりません。これが大変難しい。私たちは成功体験を重ねれば重ねるほど、強固なものにしていきます。ベテランの人ほど、新しいやり方についていくのに時間がかかるのはそういったところからです。

過去の経験則から考えて判断するということは決断のスピードも速いですし、エラーも少ない。それはとても望ましいことです。しかもエネルギー効率もいい。大ざっぱに物事の輪郭を把握し、類似項目を洗い出し、最適解を導き出す。過去の経験則は効率的に進めるうえでとても重要です。

過去に似た事例はなかったか?

過去の事例に当てはめて、安易に判断してしまうこと、これまで過去に似た経験をしたことはなかっただろうか?しかもできなかった自分の経験の方がいいだろうと思います。

自分は自分として唯一無二の存在であると思いたい時期って誰しもあるかと思います。中二病と言われる頃。自分自身の存在を唯一無二と思いたいのに、変に空気を読んでしまい、量産型の自分に落ち着いてしまおうとし、反発している。

自分の中の反発心を行ったり来たりさせながら、いわんや中毒のような状態に陥っている。その成れの果てが自分探しなのだろう。

はたして

事実を丁寧に観察する

事に対して目を向けていたのか甚だ疑問でもあります。

 

それは天邪鬼な自分をただ認めてほしいという承認的な欲求にも似ているのかもしれない。

中二病と承認欲求。

事実を丁寧に観察する

ことができなかった、やらなかった、知らなかったことの事例にならないだろうか。そう考えると現代人が抱える問題の解決の糸口になるのかもしれない。

事実を事実として観ることができないというのは、案外都合がいいものなのかもしれない。いつまでも夢を追っかけていられるし、勝負から逃げることだってできる。世間・時代・運・・・いろいろなものに理由を押し付けることだってできるんだ。

 

事実を丁寧に観察する

丁寧に、の丁寧って何だろう?

うーん、うーんと眉間にしわを寄せて観察することでもなければ、ジーっと上から下までじろじろと眺めることでもない。

事実を、丁寧に、観察する。

三つに分類されるこの言葉。どれもできていないんじゃないかと思ってしまう。

 

事実を事実として観るのに感情はいらない。ただ、事実を事実として捉えることが怖い人はいるだろう。女の人は毎日毎日鏡の前に立つ。それだけでもかなり度胸が据わっていると言えるのかもしれない。失礼な話だけど。

事実のままでは恋もできない。夢もない。

しかし事実はおそらく美しい。事実の隙間に生まれる行間もろとも美しい。

丁寧というのは氣が届いているということ。同化させ、距離を取って、事実を事実として受け止める。そして行間を味わうことで、見えないものが見えてくるのではないだろうか。

事実を丁寧に観察する

ということは、そういうことなのではないだろうかと私は考える。

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