成長が一方向的であるにもかかわらず、ウロウロとしてたりもする
愛光流では瞑想ではなく光明想というように表現していますね。
一般的な瞑想とは一線を介しているとは思いますが、書き進めていきたいと思います。
光明想をしていて、徐々に進んできていたとして、いろいろなことを思うんですね。
笑ってしまうようなことや息をのむような気付きに出会うこともある。
わたしというものの成長が一方向的であるにもかかわらず、わたしというものはウロウロとしてたりもする。
ウロウロしていることに気がつくようになっただけでもしめたものだと思ってみるのだけれど、それが意味のない部分にあることにも気がつく。
光一元であり、遮るものがない。
遮るもの、無限であるというのが、わたしの中でわかりにくかったのですが備忘録的な内容で書きたいと思います。
遮りって何だろう?
遮るものがない。
そもそも遮りって何だろう?というのがはじまり。
遮るものというとわたしたちの自由を妨げるものなんじゃないかとイメージする。
自由というものを考えたときに、いつでも自分の望みや願いの通りに表現すること。もしくは実現すること。
学生のころなんかに自由を遮るものとしたら、校則など校内におけるルールとか規則が遮りだと思っていました。
先輩の教室、体育教官室の前を通るたびにドアの前に向かい立って、一礼しながら大きな声であいさつをして通る。こういったことは校則ではないものの部活動のルールとして徹底されていた。
尾崎豊氏の世界観に共感する時代、時期。大人や年長者が遮りの象徴でもあった。
早く大人になりたいと願い、同時にあんな大人になりたくないという世代。
矛盾していながらも日々を過ごし、目に見える遮りから脱却できる日を迎えたはずだった。
遮りというものは、わたしたちが大人と呼ばれる時期を過ごすときにもどうやら存在しているようで、これまでに自由を遮っていたものがなくなっても別の形で現れる。社会のルールや常識、そのほかにもいろいろなものが自由を遮ってくる。
大人になったほうが自由じゃないんじゃないだろうか。
そんなふうに思ったこともある。
社会というものが遮りなのだとしたら、抜け出すことってできないんじゃないか?
そう思ったときには愕然とした。終わりなき遮り。ただただ息苦しい。
前提から疑う
落とし穴があって、落とし穴に気がつかないでいた。
どうやら
落とし穴の中で考えていたようだ。頭の中はこうです。
落とし穴がある・・・落ちるでしょ・・・そして・・・だから・・・。という風に。
まずは落ちるという前提。
さすがにわけがわからなくなるので、前提から疑う。
そもそも自由というものが存在するのだろうか?
もしくは、
本当の自由というものを見間違えているんじゃなかろうか?と。
光のルール
光のルールを知る。
光の意識体、光というものの存在を近くに知覚する。
限定がなく、遮りがない、ただただ広がる世界、空間。
光のルールでいる、原則にいる。
遮りがこれまでそばにいたように思えていたが、いつの間にか遮りはどこかへ行ってしまったみたいだ。
光のルールや原則もあれば影のルール、影の原則もあります。
おもしろいもので、直立不動して一例をしてあいさつをしてから通り過ぎるという校内ルールを過ごしてきたわたしにとっては、ルールというものは意外と得意なのかもしれない。
ルールを遵守するのだということはしたことがあって、遵守するものを影から光に変更しようと思う。
サッカーもすれば野球もする。柔道だってバレーボールだってルールは存在する。
横断歩道を渡るルールもあれば、給料日なんていうルールもある。
わたしたちはいつもルールの中に生きている。
どんなルールなのか、だけなんじゃないかな。
サッカーのルールと光のルールは並べることはできないけど。
四柱推命的な観点だと官という星がルールとか規則を表す。
四柱推命で表現するのもどうかと思いますが、まぁそういうこと。官があるとルールは得意だ。
横に並んでいるものと縦に並んでいるものがあり、どちらにあるものなのかを見極めなきゃいけない。出会う大抵のものは横に並んでいるので、「横に並んでいるんでしょ」で事足りる。しかしそうなると横にあるのが普通の感覚になるので、離れる訓練は必要だな、と。
離れると書きましたが、離れることってとても大事だなって思っていて、離れることで客観視できる。わたしたちは我を忘れるほど没頭することが楽しいと思っているかもしれないけど、離れているほうが楽しいものだ。
離れるからこそ影だって楽しめる。
ゾンビ映画は観れるけど、ゾンビには会いたくないでしょ。
遮りのルール、原則を知ると、遮り自体が自分自身であり、自分自身と思っているものも遮られている者、遮ったものの結果として幻想的に存在しているものだ。
遮りだって遮ることでわたしたちを煙に巻くけど、遮りが無限の偉大さを教えてくれる。
本当なのかウソなのか。
横にあるのか、縦にあるのか。
わざわざ遮っている
遮りが、定義づける一点になるのだとしたら、それも含めて光である。
遮ることで影ができる。影をわたしだと多くの人が認識している。
遮りがあるから多くの人が認識しているわたしが存在する。
言いかえると、遮りがないと多くの人が認識するわたしは存在することができない。
ということは、わざわざ遮ることで認識しているわたしを存在させているのだ。
本当は光一元であり、遮っても遮っても光であることに変わりはないのに、わざわざ遮る。
わざわざ遮った挙句なのだからしょうがない。
わざわざを諦めてしまった方がいいのだ。
光のルール、原則を知ることは、わざわざを諦め、手放すことに繋がります。
そこには選択肢があるようでない。
選んでいるとか選択肢があってとか、そういったものでもない。
意外とわたしたちはそういった体験をしていない。
どちら?でこれまで生きてきたから。
どちら?もわざわざ選んできたんだ。
まとめ
光が存在し、影は光があるからこそ存在する。
影は光を遮ることでのみ存在する。
影があっても光を当てると影は消えてしまうし、遮るものがなくなると影は存在しなくなる。
光だけが存在し、影は遮らないと存在できない。
光をわざわざ遮ることで影を作る。
そう考えると、影も光に属しているのではないかと思うくらいです。少なくとも敵対しているものではないなと。
わたしたちは生きていて、何となく息苦しさや不自由さを感じているけれど、何となく毎日の中で、息苦しさや不自由さの中でも、ささやかな喜びや生きがいを見出して生きています。いや、見出そうとしています。
小さな箱の中にいたら息苦しいように、何かに制限されていたら不自由さを感じたり、不幸だと感じたりします。
それらはすべて遮りであり、遮りがあるから無限とは思えない。無限とは文字通り限りが無いという意味ですから。遮っているようでは無限ではない。
しかし本来は無限なのです。
これまでわたしたちは無限ではなく有限のルールで生きてきた。
有限とは限りがある、遮りがあるということです。
遮りはわざわざ置いているものです。
わざわざ置いてあるものですから、一旦どかしてみてもよいのではないかと思います。
遮りが重たいようですと少しづつ動かしていくしか方法はありません。どこかからユンボでも持ってきてどかしてもらえると簡単ですけどそうもならない。そこは時間をかけてでもやるしかない。
そこは諦めるけど、遮りをどかすことは諦めずに行きたいとわたしは思っています。
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