11日は広島県に行きました。
師匠愛光流山本の講座、「整体と明想」に参加するためです。
もう終わってしまいましたので、今更なのですが、こちら↓
でした。
整体講座は大広間、こちらは畳になっていて、実技をたくさんやりました。冷えの急処や腎臓の異常のための実技を行いました。
2人一組で行いましたので、会場にお越しになられている、愛光流の整体にはあまりお詳しくない方と組ませていただきました。
身体の変化に大変驚いておられました。
冷えなんていうのはわかりやすいですね。冷えの急所をお互いに交代しながら、グイグイ押さえます。そうすると汗が自然と出てきます。会場全体がそうなのですから、会場全体の熱気も高まってきました。
腎臓の手当ても同じように2人一組で。整体の急処をお互いにグイグイしていますと、お互いの会話も増え、これが癒氣と言うものだなと感じます。
肝臓の急処もありました。肝臓の急処は痛かったですね~。肝臓は眼や筋肉も司ります。広島まで自家用車で移動しましたので、眼はとても疲れていたんでしょうね。押さえた後には、なんだか眼がすっきりしています。視野が広がったというか、目の前が明るくなったような氣がしました。
午後からは明想講座。
先ほど肝臓の急処を押さえて、目の前が明るくなったと書きましたが、本当に明るくなるのが明想です。
明想のことを少し書きます。
愛光流山本が講座中に話していた内容も含みます。
私という存在の正体は不可視の私である。
私の正体は目に見えない存在である。
目に見えるこの世界は目に見えないものから作られている。
同様に、私の正体は見えない私なのです。
不可視の世界には国境もなければ、差別もありません。
見えないのですから、分けようもないのです。
反対に可視の世界には国境や差別、分離、分断がある。
不可視の世界に分離や分断がないということは、可視の世界には分離や分断しかありません。
空気は目に見えない。
しかし存在している。
空気の存在を信じている人はいるだろうか?
空気は目に見えないが、信じているとか信じていないとか関係なく、存在している。
信じているとか、信仰しているという言葉は、存在していないものを現わす。
希望も同じです。
存在していないからこそ、信じ、信仰し、希望を持とうとする。
信仰や希望は打ち砕かれ、信仰や希望は存在しないものに対して使う言葉なのです。
私たちは空気を信仰するだろうか?
空気に希望を持つだろうか?
「空気さん、明日もいてくれるだろうか?」とか
「空気さん、私を極楽に連れて行って」などと、夜な夜な考えるだろうか?
書いていて、おかしなことを書いているなと思います。
「信じる」
人を信じる、気持ちを信じる、心を信じる、未来を信じる等々。
「希望」
将来に希望を持つとかでしょうか。
「信じる」とか「希望」はどちらかというと、皆が使いたい、美しいとされ、使うことを推奨されている言葉のように思います。
「ぼくは○○のことを信じているんだ!」なんて、ドラマや小説のセリフにも出てきそう。
ややチープですけど。
美しい言葉。
なぜ存在しない「信じる」や「希望」を美しいとするのでしょうか。
それは美化しないとやっていられないからです。
そもそもないから、美化でもしないとやりようがないのです。
こうなったら根本的価値観を書き換えましょう。
私たちの価値は、お金持ちであるとか、社会にどれだけ貢献しているとか、家族がいるとか、仕事があるとか、資格を持っているとか、諸々のいわゆる外側の条件で決まりません。
外なる条件が幸と不幸を分けることもありません。
外なる条件にはすべて限界があります。
範疇があります。
限界の外側は違うということです。
そこには分離と分断があります。
分離分断の可視の世界。
分離と分断があるということは、有限であり、無限ではない世界だということ。
真実ではない、信じるや希望の世界です。
一方で、不可視の世界は真実であり、正体であり、無限の世界です。
私たちは不可視の存在であり、それを光と呼んでいます。
真実の世界には分離分断がありません。
限界がないのです。無限です。
ということは、1つしかないのです。2つとないのです。
2つとないのだから、そこには
戦争や争いはありません。たったひとつだからです。
平和もなければ、仲良くする、もないのです。
もちろん、誰かから否定されることもないのです。
それが真実なのです。
真実について考えてみました。
真:ま、しんとか読みます
実:み、じつとか読みます
実、とは実がなる、実がある、実体とか。存在している、在るということ。
次に真実の形をみたら、どちらも末広がりになっている。足もとがしっかりしていて、どっしりしています。少々の揺れでもビクともしない感じがします。
揺れない、ぶれないというイメージです。
じゃあ、全然動かないかというとそうではなさそう。
剣士の剣先みたいにゆらゆらと微妙にゆれながらも収まっている感じ。
真実はたったひとつでありながら、固定されたものではなく、姿かたちを変えている。
その中でビクともしないものを真実と呼ぶのではないだろうか。
実:み。果実。実になる。
甘くて美味しくて、みんなが夢中になる。
みんなを幸せにする。
みんながほしがる。
ほしいからむらがる。
ほしがる
むらがる
星と村。
星のようにキラキラ光っているものが集まるから村になる、街になる。
やはり、みなさんは光であって、光っていて、それが真実なのです。
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