我慢と自己認識:感情との向き合い方

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我慢したことがない人なんてそうそうおられないと思いますし、自分で自分のことを「我慢強い」と定義付けておられる方もいらっしゃいます。

実際にそういう方のお話をお聞きしますとほんとうに我慢強い!わたしだったら決してできないことも我慢して遂行しておられる。

頭が下がる思いです(;^_^A

わたしたち日本人は世界的にみても我慢強い国民ではないかと思います。大災害に遭って、家がそれこそなくなるくらいの災害に見舞われてもじっと我慢をして配給される食べ物の列にきちっと並んでいる。こういったところは日本人の礼儀正しさとか美徳として世界にも発信されています。

わたしもそれを観てほんとうに日本の人達はえらいなぁって思うわけです。といっても、わたしだってきちんと並ぶと思いますよ。急に列の横からグイって横入りは多分しないと思いますよ。

この「我慢」という言葉。我慢強いのが本当に美徳と言えるのだろうかということを考えてみたいと思います。

我慢 - Wikipedia

 

我慢(がまん)とは、仏教の煩悩の一つ。強い自己意識から起こす慢心のこと。

四慢(増上・卑下・我・邪)の1つ、また七慢(慢・過・慢過・我・増上・卑劣・邪)の1つ。仏教では人間を固定的な実体として捉え、自己に執着(しゅうじゃく)することを我執(がしゅう)といい、その我執から、自分を高く見て他人を軽視する心をいった。

現在、一般的に自分自身を抑制し、また耐えるという「忍耐」の意味あいで用いられる「我慢する」は、もともと「我意を張る」などという強情な心意を介した転用で、近世後期から言われるようになったとされている。

Wikipediaさんからです。

我慢とは煩悩のひとつなのですね。しかも強い自己意識から起こす慢心のこと、だそうです。

「我慢強い」自分を取り下げたい気持ちになりますね。

また、自分を高く見て他人を軽視する心をいったとあります。

我慢を思い出すと自分を高く見て他人を軽視する心がないわけでもないなと思うわけです。

我慢するときに「この人はこういう人だから仕方ない。わたし一人が我慢したらいいんだから」とか「何を言ってもしょうがないから我慢したらいいか」と思ったりしていることが多いのではないでしょうか。

これはもしかしたら自分を高く見て他人を軽視していることにつながるのかもしれないな、と。

我慢というのは美徳では決してなく、自己に執着し相手を軽んじることであり、そういったことはいけないよとお釈迦さまはおっしゃったのではないでしょうか。

 

しかしでもね、現代社会にまともに暮らしていたら我慢のひとつでもしないとやって行けないという部分もあるのではないでしょうか。誰もかれもがマウントをとってきて、下手をすれば論破されて、自分自身を保つことができなくなる。そりゃ我慢のひとつでもしたくなる。

おそらくですが、その方法はもう通じなくなる。我慢しすぎて心がどうにかなってしまうからです。そうなる前に自分自身を知ることが必要です。ほんとうの自分は何なのかを知る必要があります。

「我慢」をしている自分はほんとうの自分ではない。感情がわたしなのだと勘違いもしていますし感情があの人なのだと勘違いもしています。もしわたしが今日も明日も来月も再来年も存在するわたしなのだとしたら、そこに「我慢」も感情も同居しているはずです。でもそんなことないですよね。あの時はめちゃくちゃ怒っていても、ボロボロに落ち込んでいても止まない雨はない。同じようにいつも怒っているわたしもいなければ、常に落ち込んでいるわたしもいない。今日もし凹んでいても明日はまだ凹んでいるかもしれませんが、来月には笑っているはず。来年になったらすっかり忘れてしまって別の感情を持っている。感情はわたしではないということはどうやら確かなようです。

普段から感情を客観視して、眺めてみることなんてしないですからね。

わたしというものは何なのだろうか?こういった問いに真剣に向き合うときが来ているのだなと強く強く思います。

 

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