相手に合わせること 自分にとって新しいことをする心
そういう心は直くに雰囲気に出るのです
顔にも出ます
体にも出ます
けれども 何よりも雰囲気に出るのです
そこで体の変動のある人の家を訪ねた場合に
その雰囲気で何処が乱れて体がそのようになっているかということは
慣れると直ぐに判る
昨日も来た人で
喘息の子供を連れているお母さんでしたが
「この子は食わず嫌いなのです それで喘息を起こすのではないでしょうか」
という質問なのです
食わなければ好きも嫌いもないのです
「食わず嫌い」なんていうのはないのです
食って好き嫌いが判るのです
人間はそういうように出来ているのです
ただ食わないで嫌いな中には
心がこもっていないとか
色のつけ方が毒々しいとか
何か食べるもの以外の何らかのものでそれが嫌になって食べないというだけで
食う物自体としては食わない限りは好きも嫌いも判らないのです
そこで私は「あなたは無理に食わせようと勧めるのでしょう」と訊くと「いやこの子は絶対に食べない」と言う
「そういう顔で食べなさいと言うのでしょう」と言ったのですが
親のそういう押しつけ
強制
それが嫌なのです
カマボコでも毒々しい色のついているのは食う気がしないでしょう
それと同じように
押しつけ
強制
お母さんの恐い顔
或いは氣がこもっていなくて
ただ「はい」なんて出されたら それだけで嫌になってしまうでしょう
食う物自体の問題ではない
食うまでの行程で嫌になってしまうのです
だから「あなたは料理を習ったと言うが何のために習ったのか」と訊いたのです
「亭主に食べさせるためだ」と言う
「その亭主は何故料理屋へ行って食うのか あなたのがまずいからなのだ あなたの腕を子供のために振るえば 食わず嫌いなんていうのも無くなるし そして子供ももっと食欲が出るだろう 食う物が嫌いなのではない 強制 圧迫 その三角の目 他人の私でも見ているだけで嫌な気がしますよ」
と言ったら 顔を赤くしたので
「赤くするだけ純情ですな しかし子供の前では直ぐには赤くならないでしょう」
と言ったが とにかく恐いお母さんがいるものです
それが食わず嫌いというように
認める角度を固定させてしまう
それを断定して押し付ける
それはお母さんの主観的なもので
こういう場合
親は子供がそれを食わないのは何故嫌なのか それを分析していないのです
分析すれば自分が押し付けていることぐらいは直ぐに判るのです
~中略~
新しいこと
自分で考えたこと
創造すること
工夫すること
皆面倒臭がってしまって
人に言われたことだけをやる
人の真似をしていくだけになってしまい
そしていけなければ捨ててしまう
だから工夫とか
物を大事にするとか
新しいものを創り出すとかいうことがだんだん無くなってきてしまう
もし日本中がそうなったらほんとうに哀れだと思うのですが
そういう中で
お母さんがにらんで「食わず嫌い」にした子供達は殊更に新しいことが出来ない
そんなことも家庭をのぞくと直ぐに雰囲気があって判るのです
その雰囲気から観た家庭の全体の動きから個人の体を観ていくと
その毀れている理由まで判ってくるのです
そういうことが特に個人指導する場合には一番大事な問題で
ギュウギュウ整圧することを余分にやってしまうようなことは
やはり慎まなくてはいけない
~野口晴哉 整体する心~ より
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