鳥取県倉吉市にあります庭園 『環翠園(かんすいえん)』に行ったというお話は前回いたしました。
下記にございます。
前回はご案内的な内容でした。
今回は『環翠園(かんすいえん)』でのことを書こうと思います。
そもそも庭園には興味がありました。なぜかと言いますと、日本の持つ美というものに興味があったからです。私たち、私だけなのかもしれませんが、日本に居ながらにして、日本のことをあまり知りません。私は移住してくるまで鳥取県のことはまるで知りませんでした。「砂丘?・・・」っていう感じでした。三朝温泉や皆生温泉、大山なども、移住してきてからその素晴らしさ知りました。
同時にこれまで住んできた地域のことにも興味が湧いてきて、いろいろと調べてみると、それはそれでおもしろい。
世界の都市や遺跡などもいいかもしれません。
遠く離れているものに思いを寄せるもよし、近くを深く知るもよし。
ということで、まずは日本の文化や日本を知ることに興味を持ったのです。
大山のふもと。
ほぼ手付かずの自然を見たとき、それを切り開いて集落を作った人たちの姿。
敬服しました。
手付かずの自然ほど畏怖すべきものはなく、共存するためには人が手を加える必要がある。
手付かずの自然より計算されつくした庭の方が美しさを感じたのです。
手付かずのままの素朴さが度を越えて粗暴さに映る。手を加えることで、素朴さが素朴さのままで光を放ちます。
おもてなしという世界は隠された美の中に在るのではないかと思いました。
茶室と一体となった庭園。茶室に向かうお客をもてなすための空間。
たくさんの趣向があり、楽しむことができました。
残念ながら、ガイドさんに説明を受けなくてはわからない趣向もあり、「へぇ~!」といちいち頷きながら案内していただきました。
「神は細部に宿る」という有名な言葉がございます。
細部ってどういうことでしょうか。
お茶室にお越しになられる、お客様おひとりおひとりの為におもてなしをするということも細部にまで目を届かせなければできないことではないかと思うのです。
そして「神は細部に宿る」のです。
リッチとかセレブ、ぜいたくと言います。これらの意味をあまりわかっていなかったように思います。
リッチとかセレブ、ぜいたくするというと、お金をたくさん使うとか高級なものを買うというような意味合いだと捉えていました。
「今日はぜいたくして回っていないお寿司よ」とか「セレブな気分を味わうためにホテルのレストランで食事をする」とか。
食べ物ばっかりだな・・・
リッチとかセレブ、ぜいたくはしたいというのが本音であっても、ほしいもの、望ましいものをわからないままに、モノや物質を追いかけていたように思います。
お金だけじゃない豊かさが存在するのはわかるけど、だったら何なのでしょう?人の温かさ、優しさ。そうはいっても誰だって貧しくなると、おなかが減ると、冷たくなって、攻撃的になって、怒りっぽくなって、それはそれで普通のことです。
美しさが見えない所に隠れているように、モノではない幸せは目に見えない所に隠れているのではないだろうか。隠れているというのは、見えないという意味なので、見えない所に隠れているという言葉は本当はおかしい。
庭園を歩くと、わからない何かを感じる。五感で感じる。五感すべてがある一定方向に向かうのです。
風、水の音、木が揺れる音、陽が陰る・・・すべてが、変化・動きのすべてを心地よく感じます。
茶室から観る庭園。これまで歩いてきた場所を違う角度から眺める。空いっぱいに広がっていたものを、今度は茶室の小窓から、切り取り造作されたものを眺める。
私が訪れた日はガイドさん曰く「ラッキーな日」だったそうです。それは庭園内を流れる川にたまがわが観えたこと。たまがわとはきれいな水でしか見られない状態で川の流れに光が差し、たまのようなものが見えることだそうです。インターネットで探したけど見つかりませんでした。
「たまがわ」が正式な言葉なのか、方言的なものなのかもわかりませんが、水面に揺れるたまがわがキラキラと光って、ガイドさんの言うように「ラッキーな日」だったのだなと思わせてくれました。川の流れをたまがわが観れるようにデザインして作られたそうです。
庭園内の川には鯉や小さな小魚も泳いでいました。庭園内外を循環している自然の川だそうで、鯉以外の小さな魚は庭園内外を行き来することができるそうです。
こういう空間にいますと時間が止まったように感じるのはなぜでしょう。いつまでもいたくなる。
そうか、だからガイドさんがいるんですね。みんなが立ち止まってなかなか離れようとしないから。先を急ぐよう、促すのもガイドさんの大切な仕事なんだな、と。
落ち着く空間といつまでも落ち着かない人間。そのコントラストがおもしろい。
そういえば切り取った自宅でさえ、落ち着かない私たちがいるのかも。時間を忘れるくらいの時を過ごすことも日常的に失っているのかもしれませんね。
手付かずの自然ではなくデザインされたものこそ美しい。田舎に住む人が「自然なんてまっぴらだ」というのに納得する。管理されていないものを美しいとは思えない。手付かずのままでも美しいものもあるのだろうが、切り取らないといけないのだ。
ものごとには省くということが必要だ。無駄というのは足りないのではなく多すぎる。諄すぎる。省くことで際立つものがあり、それも隠れていたものだといえないだろうか。
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