以前、このような記事を書きました。
このときは知り合いに頼まれて、コンサートに出かけました。20数人くらい収容できるライブハウス。
前回の記事は前座を務めましたシンガーソングライターの女性の話でした。大山の水の美しさに心を奪われて、そのまま移住してきたという彼女のお話でした。
さて、本番です
今回はコンサートのメインのシンガーソングライターの、これまた女性の話です。
ライブ?コンサート?どう違うのだろう?
わからないので調べてみます。
コンサートとライブは明確な定義がないため、どちらを使っても構いません。同じ会場でもアーティストによって「ライブ」を使ったり、「コンサート」を使ったりします。明確な基準はないものの、イメージや好みによる使い分けがあります
と、ありました。
どっちでもいいみたい。ライブで行きますか、今回は。
なぜかというと、ライブの方がタイピングする数が少ないから=文字数が少なくて楽だからです。
ラクダが楽だ。
ラクダとライブも似てますね。
ラクダがライブすると、どうなるのだろう?僕はとりあえず寝るでしょうね。「ラクダとライブでトライブしようぜ!」
もう訳が分からない・・・
続きです。
ライブが始まり、メインのシンガーソングライターさんが登場してきました。
サザンオールスターズのライブなら桑田佳祐さんが、Mr.childrenのライブなら桜井さんが登場してきたようなものでしょうか。
椅子が並べられた会場、通路になっている端を歩きながら登場してきた彼女を見て、即座に体癖でいう所の「前後型第6種」の女性だとわかりました。
手にはギターを持ち、椅子に座ったまま歌うスタイルです。
MCが始まった途端、彼女が前後型6種であるということに確信を持ちました。
体癖 前後型6種
体癖は整体の独特の考え方であり、体運動の偏りを観て、意識以前にある無意識下の状態を読み解いていく。偏りにも、偏ったが故の平衡への欲求があり、欲求の方向性によって、感受性の違いや物事の捉え方、大事にしている信念なども異なってくる。同じものを観ても、別の人間ならば同じように物事を捉えていない。何かしらあった出来事を身体のどこで、背骨のどこで受け止めるかによっても受け止め方が変わってくる。営利目的のために身体を動かす人もいれば、勝ち負けの為にぷうっとして堪えている人もいる。無意識下におけるそのような行動や思い込みは、地球と重力という関係性のもとに生まれ、無重力にでもならない限り、営利目的な人はやはり営利目的であり、勝ち負けの人は勝ち負けなのである。そのような観方をとにかく整体はするのです。
体癖は12体癖。特殊なものが2種類含まれていますので、基本は10体癖にわけることができます。
専門的な話がもう少し続きますが、とにかく壇上の女性シンガーソングライターさんは前後型6種という体癖の女性でした。前後型には5種と6種があります。
野口晴哉先生の書物「体癖」から前後型6種の部分をご紹介します。
5種体癖の人は緊張してくると、肩に力が入ってきて、肩が緊張している間は行動するというのがその特徴ですが、肩が緊張しているのに行動しない人たちがいるのです。
~中略~
前後型の中にも、5種と6種があって、肩に力が入ってくると5種はワイワイするが、6種は陰気になっていく。陰気になってしょうがないので、言葉で引き立てるつもりか、熱のある言葉を吐く。
~中略~
昔の共産党の闘士には6種が多かった。一番簡単に英雄になる方法だったからだと思うのですが、やはり6種にはそれが合う。余り労作しないで、非常に理想家で、坐って熱のある言葉を吐き、熱血漢で大勢を動かして、今にも行動するかに見えて、その実自分は動いていないというような場合には、6種的な体癖素質を連想してよいのではなかろうか。
~中略~
意識しての行動にはなかなか結び付かない。むしろ行動しないで、ひとりで熱い言葉を吐いて、言葉だけで酔って暮らしているというのが多いのに、無意識には欲求不満とか劣等感がそのままでとどまらず、サッと行動に現れる。しかも意識行為にではなく、意識しない行為に現れる。ですからヒステリー的動作をとったり、激しい場合には統合失調症ではないかと思われることも時にはあります。信仰に熱心だとか、ある主義に殉ずるという特異な傾向をとる人たちの中には6種が多い。聖セバスティアンなどは、ああいう殉教の仕方からみると、ひょっとして6種だったのではないだろうか。
前後型6種というのは美辞麗句を言葉にしますが、熱がこもれば籠るほど行動にはならない。そして無意識的な行動はヒステリー気味にやや行き過ぎて極端なことがあります。美しさを追求するあまりナルシストな傾向もありますが、たえず空咳をしているような息の短さ、呼吸の浅さがあります。息が生きと通ずる部分があるからなのか、死に対するあこがれもあるようです。
美しく死にたい、などというのは6種の世界観と言えます。
いよいよライブが始まった
彼女が椅子に座り、ギターをつま弾きます。弾き語りスタイルです。MCも短めに早々に曲に入っていきます。
彼女の声は籠っていて、息が浅くて、長くは続かない。
息継ぎにも危うさが感じられる。
息をしているのに、息継ぎを繰り返しているのに、どこか息苦しそうだ。
聴いているこちらまで息が詰まりそうになる。
とにかく息苦しい。酸素が薄いようにも感じられる。
しかしそこには一片のはかなさが見える。
歌声は擦れ、裏声を使用するときもあるが、押しつけがましさはなく、あくまでも自分の裡に裡に籠っていく。
そこにあるナルシズムは自己犠牲というより自傷的にも感じられた。
彼女が描き出す息苦しさにはナルシズムの追求があり、美の裏側には死を連想させる。私は窒息死はごめんだが、詰まっていく息に心地よさを現わしている。弾き語りは続いているが、今にも息切れして、窒息して死んでしまいそうにも思える。
死にそうにしながら死にもしない、ある種、中途半端なナルシズムを見て、ほかの観客の人たち、ほかの体癖の人たちは、どのように感じるのだろうか。
前後型6種的な世界観
死を連想させる、どこか暗い前後型6種的な世界観。
ジャズや酒場をイメージさせ、大人な雰囲気。どこか達観した大人をイメージさせる。達観ではないな、あきらめ、かなと。
歌声というよりも息。これほどまでに息というものを意識させられたのには、ハッとした。これが6種というものなのか。ある意味で丸腰で挑んでいるようで、彼女を見る目が変わりました。
息とは自分の心と書きます。それが息であり、自分の心の裡に潜むものは息として現れる。
鼻息が荒い人がどういう人かは、お分かりだろう。
息とは自分の心と書く。心の上に自分がいる。心が土台になっている。
心とは中心、真ん中という意味である。
心とは真ん中 、真ん中とは目に見えない実在とも捉えることができる。目に見えない真ん中にあるものの上に、自分、私たちは立っている。
それは息に現われるのだ。
息。生きるともいう。息とは生きることなのだ。
息がないのは死を意味する。
息とは人の生命そのものであり、息を必要以上に意識させる前後型6種は何ともあざとい、浅ましいものなのだと思う。
ナルシストはナルシストらしく籠っていればよいのに、オタクになればよいのに、わざわざ発表してまで、コホンと咳をする。
その息は粋に通じるのだろうか。
粋に生きてみたいものである。
粋とは執着とか拘りがないように思える。
死を意識し、反対に生を現わす前後型6種のやり方で粋を表現でき得るだろうか。
実際に彼女は1曲歌い終わるたびに水を飲む。グビグビではなく、クピクピと水を飲む。
そして少しMCして、また水をクピクピ飲んで、歌い始めるのだ。
息と粋。
どちらも生き方を現わしている。
私は彼女、前後型6種の彼女のライブで多くのことを学んだ。新しくというより改めて。
いい一日でした。
いいライブでした。
行ってよかったです。誘ってもらってよかったです。
冷え性っぽい前後型6種のシンガーソングライターのライブ。
いくら空咳をしても、死ななそう。しぶとそう。
それもまた6種っぽくていい。
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